昨晩の川崎記念の決勝。並びは松井‐郡司‐松谷の神奈川,古性‐南の大阪,清水‐桑原の山口,山崎に佐々木。
桑原と清水がスタートを取りにいきました。同じラインですから清水の前受けに。3番手に松井,6番手に古性,8番手に山崎で周回。残り2周のホームの入口から山崎が上昇開始。佐々木の後ろに古性が続きました。しかし清水に並び掛けようかというところから清水が突っ張ったため,山崎は引くことに。これをみて3番手にいた松井がバックから発進。打鐘でラインの3人が清水を叩いて先行。4番手に清水,6番手に古性,8番手に山崎の一列棒状に。後方になってしまった山崎はホームから発進し,これに合わせて古性も発進。しかし追いつく前に4番手の清水がバックから発進したために,後方になったラインは不発。松井との車間を開けていた郡司が清水に合わせて発進。清水を前に出させることなく優勝。マークの松谷が1車身差の2着に続いて神奈川のワンツー。清水が1車身差で3着。
優勝した神奈川の郡司浩平選手は当地で行われた2月の全日本選抜競輪以来の優勝。記念競輪は昨年10月の熊本記念以来となる11勝目。川崎記念は2017年と2019年に優勝していて2年ぶりの3勝目。このレースは松井の先行が有力。だれかに絡まれない限りは郡司が有利。絡むとすれば古性だと思っていましたが,展開の上でそれが不可能になり,郡司が無風で番手を回りました。清水も脚力はありますが,松井クラスの選手の先行を郡司に番手から出られては,3着でも仕方がなかったように思います。
すべての個物res singularisの観念ideaについて,それが現実的に存在するための起成原因causa efficiensが与えられるかどうかは人間の精神mens humanaによって認識するcognoscereことができないとすれば,少なくともこの観点からは,神Deusの無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる個物の観念のすべてが,現実的に存在するようになるかどうかは人間には分からないと結論するほかありません。したがって柏葉がいっている通りに,もし標準的解釈が,そうした個物の観念のすべてが現実的に存在するようになるということを前提しなければ成立しないのであれば,標準的解釈は失敗しているといわざるを得ないだろうと僕は考えます。ただし一方で,このことは人間には分からないというだけであって,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる個物の観念のすべてが,現実的に存在するようになるわけではないということを意味しているわけではありません。むしろそうである可能性も排除することはできないというのが結論になります。よって柏葉は,第二部定理八備考の読解から,そうした観念のすべてが現実的に存在するようになるわけではないといっているわけですが,その読解の正当性は,この観点からは正当化することができないことになります。つまり,この観点から帰結することは,柏葉の解釈の通りであれば標準的解釈は明らかに失敗しているけれど,柏葉の主張が正しいわけでもないということです。
ですからこのことについて何らかの結論を出そうと思うのであれば,それとは別の論理によって帰結させるほかないということになります。柏葉による第二部定理八備考の読解がそうした手法のひとつであることは僕も認めますが,その読解自体が正しいと結論することはできないということおよびその理由についてはすでに説明した通りです。なのでここでは,このことは人間の精神によっては不明であるということだけを結論としておきましょう。現状の考察の目的からすれば,これ以外の観点に着目してこの問いに対する正確な解答を導くこと自体はさほど重要ではないからです。ただ,どちらの解釈も弱点を抱えているとは思いますので,それについては説明しておきましょう。
桑原と清水がスタートを取りにいきました。同じラインですから清水の前受けに。3番手に松井,6番手に古性,8番手に山崎で周回。残り2周のホームの入口から山崎が上昇開始。佐々木の後ろに古性が続きました。しかし清水に並び掛けようかというところから清水が突っ張ったため,山崎は引くことに。これをみて3番手にいた松井がバックから発進。打鐘でラインの3人が清水を叩いて先行。4番手に清水,6番手に古性,8番手に山崎の一列棒状に。後方になってしまった山崎はホームから発進し,これに合わせて古性も発進。しかし追いつく前に4番手の清水がバックから発進したために,後方になったラインは不発。松井との車間を開けていた郡司が清水に合わせて発進。清水を前に出させることなく優勝。マークの松谷が1車身差の2着に続いて神奈川のワンツー。清水が1車身差で3着。
優勝した神奈川の郡司浩平選手は当地で行われた2月の全日本選抜競輪以来の優勝。記念競輪は昨年10月の熊本記念以来となる11勝目。川崎記念は2017年と2019年に優勝していて2年ぶりの3勝目。このレースは松井の先行が有力。だれかに絡まれない限りは郡司が有利。絡むとすれば古性だと思っていましたが,展開の上でそれが不可能になり,郡司が無風で番手を回りました。清水も脚力はありますが,松井クラスの選手の先行を郡司に番手から出られては,3着でも仕方がなかったように思います。
すべての個物res singularisの観念ideaについて,それが現実的に存在するための起成原因causa efficiensが与えられるかどうかは人間の精神mens humanaによって認識するcognoscereことができないとすれば,少なくともこの観点からは,神Deusの無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる個物の観念のすべてが,現実的に存在するようになるかどうかは人間には分からないと結論するほかありません。したがって柏葉がいっている通りに,もし標準的解釈が,そうした個物の観念のすべてが現実的に存在するようになるということを前提しなければ成立しないのであれば,標準的解釈は失敗しているといわざるを得ないだろうと僕は考えます。ただし一方で,このことは人間には分からないというだけであって,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる個物の観念のすべてが,現実的に存在するようになるわけではないということを意味しているわけではありません。むしろそうである可能性も排除することはできないというのが結論になります。よって柏葉は,第二部定理八備考の読解から,そうした観念のすべてが現実的に存在するようになるわけではないといっているわけですが,その読解の正当性は,この観点からは正当化することができないことになります。つまり,この観点から帰結することは,柏葉の解釈の通りであれば標準的解釈は明らかに失敗しているけれど,柏葉の主張が正しいわけでもないということです。
ですからこのことについて何らかの結論を出そうと思うのであれば,それとは別の論理によって帰結させるほかないということになります。柏葉による第二部定理八備考の読解がそうした手法のひとつであることは僕も認めますが,その読解自体が正しいと結論することはできないということおよびその理由についてはすでに説明した通りです。なのでここでは,このことは人間の精神によっては不明であるということだけを結論としておきましょう。現状の考察の目的からすれば,これ以外の観点に着目してこの問いに対する正確な解答を導くこと自体はさほど重要ではないからです。ただ,どちらの解釈も弱点を抱えているとは思いますので,それについては説明しておきましょう。
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