8日の第7期マイナビ女子オープン五番勝負第四局。
里見香奈女王の先手で三間飛車。加藤桃子奨励会1級は居飛車穴熊に。ただ少し欲張った構想だったようで,穴熊が十分に堅くなる前に先手に機敏に仕掛けられ,はっきりと苦戦に陥りました。
銀取りを受けて桂馬を打った局面。ここで☗6五桂と跳ねたのが絶妙の一着。ただですが取ると角を成られていけないので,☖4二金と辛抱しました。ただこれには☗7三桂成☖同角と銀を入手して☗3一銀の割り打ち。そこで☖3三桂と飛車取りに打ちました。先手は☗1四香☖2一玉に☗4二銀成と追撃。☖同飛に☗5三金と攻めを継続しました。☖3二玉はこの一手といえそうです。
ここで☗6五飛と回る手があり,それなら先手が勝っていたようです。しかし☗4二金と取り,☖同玉に☗4七飛と逃げました。
これでも先手が優位を保っていたようですが,手番を渡したために後手からの反撃を許すことになり,混戦に。最後は後手玉が逃げ切る形になり,後手の逆転勝利となっています。
加藤奨励会1級が3勝1敗で新女王に。第2期女流王座以来通算3期目のタイトル獲得で女王は初獲得。
『スピノザの形而上学』には,本論を補完するみっつの付論があります。その最後のものは,自己原因causa suiに関係しています。
スピノザが『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部公理十一として示したものは,デカルトが示したものとは異なっています。確かにデカルトは,存在の原因を問われ得ないものは何もないといっています。しかしそこで同時に,このことは神Deusにも問われ得るけれども,神が存在するために何らかの原因を必要とするという意味ではないという注釈をして,一線を超えないように配慮しているのです。スピノザはその部分を削除しました。これは意図的であったといえるでしょう。
ただ,デカルトは神の本性essentiaの無限性,デカルトが実際に記したことばでいえば広大無辺性が,神が存在existentiaの原因を必要としない根拠であると述べています。でもこれは,その広大無辺性が神の存在の原因であるといっているに等しいと理解できます。つまり神はその本性によって存在するといっているに等しいと理解できるわけです。この広大無辺性というのを,『エチカ』でいう絶対に無限absolute infinitumと等置することはそう難しいことではありません。ですからスピノザがデカルトの哲学のうちに,神の自己原因性を発見したことは,当然であるし妥当であったと僕は考えます。そして松田は,このことがスピノザがデカルトから受けた最重要な思想的影響のひとつであったといっています。
つまり第一部定義一は,単に自己原因の語義説明を意図したものではないというのが松田の理解です。むしろこれはスピノザによる哲学的立場の宣言なのです。あるいはこの定義Definitio自体が公理的性格を有しているといってもよいでしょう。この定義は,存在するとしか概念できないようなものの存在はそれ自身の本性のうちにあるのでなければならない,と読み換えることが可能だからです。第一部公理七というのが,これを逆にした場合です。そうであるなら,確かに第一部定義一というのは,定義であると同時に公理的性格を有しているのだといえます。これを『エチカ』の冒頭に配したことに,何の意図もなかったと考えるのは無理があると思います。
里見香奈女王の先手で三間飛車。加藤桃子奨励会1級は居飛車穴熊に。ただ少し欲張った構想だったようで,穴熊が十分に堅くなる前に先手に機敏に仕掛けられ,はっきりと苦戦に陥りました。
銀取りを受けて桂馬を打った局面。ここで☗6五桂と跳ねたのが絶妙の一着。ただですが取ると角を成られていけないので,☖4二金と辛抱しました。ただこれには☗7三桂成☖同角と銀を入手して☗3一銀の割り打ち。そこで☖3三桂と飛車取りに打ちました。先手は☗1四香☖2一玉に☗4二銀成と追撃。☖同飛に☗5三金と攻めを継続しました。☖3二玉はこの一手といえそうです。
ここで☗6五飛と回る手があり,それなら先手が勝っていたようです。しかし☗4二金と取り,☖同玉に☗4七飛と逃げました。
これでも先手が優位を保っていたようですが,手番を渡したために後手からの反撃を許すことになり,混戦に。最後は後手玉が逃げ切る形になり,後手の逆転勝利となっています。
加藤奨励会1級が3勝1敗で新女王に。第2期女流王座以来通算3期目のタイトル獲得で女王は初獲得。
『スピノザの形而上学』には,本論を補完するみっつの付論があります。その最後のものは,自己原因causa suiに関係しています。
スピノザが『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第一部公理十一として示したものは,デカルトが示したものとは異なっています。確かにデカルトは,存在の原因を問われ得ないものは何もないといっています。しかしそこで同時に,このことは神Deusにも問われ得るけれども,神が存在するために何らかの原因を必要とするという意味ではないという注釈をして,一線を超えないように配慮しているのです。スピノザはその部分を削除しました。これは意図的であったといえるでしょう。
ただ,デカルトは神の本性essentiaの無限性,デカルトが実際に記したことばでいえば広大無辺性が,神が存在existentiaの原因を必要としない根拠であると述べています。でもこれは,その広大無辺性が神の存在の原因であるといっているに等しいと理解できます。つまり神はその本性によって存在するといっているに等しいと理解できるわけです。この広大無辺性というのを,『エチカ』でいう絶対に無限absolute infinitumと等置することはそう難しいことではありません。ですからスピノザがデカルトの哲学のうちに,神の自己原因性を発見したことは,当然であるし妥当であったと僕は考えます。そして松田は,このことがスピノザがデカルトから受けた最重要な思想的影響のひとつであったといっています。
つまり第一部定義一は,単に自己原因の語義説明を意図したものではないというのが松田の理解です。むしろこれはスピノザによる哲学的立場の宣言なのです。あるいはこの定義Definitio自体が公理的性格を有しているといってもよいでしょう。この定義は,存在するとしか概念できないようなものの存在はそれ自身の本性のうちにあるのでなければならない,と読み換えることが可能だからです。第一部公理七というのが,これを逆にした場合です。そうであるなら,確かに第一部定義一というのは,定義であると同時に公理的性格を有しているのだといえます。これを『エチカ』の冒頭に配したことに,何の意図もなかったと考えるのは無理があると思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます