日本時間で昨日の夜から今日の未明にかけてドバイのメイダン競馬場で行われたスーパーサタデーの開催に2頭の日本馬が遠征しました。
ブルジュナハールGⅢダート1600m。テーオーサンドニは外目の2番手。4コーナー付近まで頑張りましたがそこからは後退。14着でした。この馬は昨春に帯同場として遠征したアメリカでGⅡに出走して2着になってはいますが,それまでは2勝クラスで苦戦していた馬。オープンでの実績がそれ以外にあるわけではないので,仕方がないところだったと思います。
マハブアルシマールGⅢダート1200m。アメリカンステージは3番手を追走。直線で2番手に上がるとそのまま粘って2着。この時期に3歳馬が古馬を相手に戦って2着なら上々。もっとも勝ち馬には大きく離されているので着順を額面通りに受け取ることはできないかもしれません。とはいえ先行しての結果ですから,出走馬の中での能力関係は着順通りだったとみていいかと思います。
僕たちが受動passioから逃れるためには,第五部定理一の様式で,事物の観念ideaを知性の秩序ordo intellectusによって認識するcognoscereことが条件となります。ただ,第二部自然学②要請三にあるように,僕たちの身体corpusは多くの物体corpusからの刺激を受けるafficiので,第二部定理一七によって僕たちは数多くの表象像imagoを形成するということになるのです。そうした表象像のすべてについて,それを知性の秩序に従うように認識し直すことは,結局のところ困難であるといわざるを得ません。第五部定理四二備考にあるように,稀であるとともに困難であるというのが正しいでしょう。ただスピノザがこのことを全面的に否定しているというわけではないこと,困難であるがゆえに稀ではあるけれども,できないというわけではないといっていることも確かです。

吉田が示している例は,大切な人の葬儀のときに菊の花を表象したがゆえに,菊の花を表象するimaginariと悲しみtristitiaを感じるようになるということですから,その人はその悲しみの原因causaというのを十全に認識することがそれほど困難なわけではありません。ですからこの人がこの受動感情から逃れるということ,要するに菊の花を表象したときに刺激されるaffici悲しみから逃れるということは,比較的には容易なことになります。他面からいえば,この菊の花の表象像から感じる悲しみを,知性の秩序に従って秩序づけるということは,わりと容易なことだといえるでしょう。したがってもしこの人が第五部定理一の様式で菊の花の表象像を知性の秩序で秩序づけることによって,菊の花を表象しても悲しみを感じなくなるということはあり得ます。これはたぶん経験的に僕たちが理解できるところであって,たとえば自分が何を表象すると悲しみを感じ,そしてその表象像によって悲しみを感じるのがなぜかということを知っていれば,それを表象しても悲しみを感じないとか,悲しみを感じるとしてもそれ以前のような強い悲しみを感じなくなるということがあるからです。第四部定理四系にあるように,現実的に存在する人間は常に受動に隷属しているわけで,受動から逃れるとは,受動に隷属しなくなるという意味でなく,能動actioの力potentiaが受動の力を上回るようになるということなのです。
ブルジュナハールGⅢダート1600m。テーオーサンドニは外目の2番手。4コーナー付近まで頑張りましたがそこからは後退。14着でした。この馬は昨春に帯同場として遠征したアメリカでGⅡに出走して2着になってはいますが,それまでは2勝クラスで苦戦していた馬。オープンでの実績がそれ以外にあるわけではないので,仕方がないところだったと思います。
マハブアルシマールGⅢダート1200m。アメリカンステージは3番手を追走。直線で2番手に上がるとそのまま粘って2着。この時期に3歳馬が古馬を相手に戦って2着なら上々。もっとも勝ち馬には大きく離されているので着順を額面通りに受け取ることはできないかもしれません。とはいえ先行しての結果ですから,出走馬の中での能力関係は着順通りだったとみていいかと思います。
僕たちが受動passioから逃れるためには,第五部定理一の様式で,事物の観念ideaを知性の秩序ordo intellectusによって認識するcognoscereことが条件となります。ただ,第二部自然学②要請三にあるように,僕たちの身体corpusは多くの物体corpusからの刺激を受けるafficiので,第二部定理一七によって僕たちは数多くの表象像imagoを形成するということになるのです。そうした表象像のすべてについて,それを知性の秩序に従うように認識し直すことは,結局のところ困難であるといわざるを得ません。第五部定理四二備考にあるように,稀であるとともに困難であるというのが正しいでしょう。ただスピノザがこのことを全面的に否定しているというわけではないこと,困難であるがゆえに稀ではあるけれども,できないというわけではないといっていることも確かです。

吉田が示している例は,大切な人の葬儀のときに菊の花を表象したがゆえに,菊の花を表象するimaginariと悲しみtristitiaを感じるようになるということですから,その人はその悲しみの原因causaというのを十全に認識することがそれほど困難なわけではありません。ですからこの人がこの受動感情から逃れるということ,要するに菊の花を表象したときに刺激されるaffici悲しみから逃れるということは,比較的には容易なことになります。他面からいえば,この菊の花の表象像から感じる悲しみを,知性の秩序に従って秩序づけるということは,わりと容易なことだといえるでしょう。したがってもしこの人が第五部定理一の様式で菊の花の表象像を知性の秩序で秩序づけることによって,菊の花を表象しても悲しみを感じなくなるということはあり得ます。これはたぶん経験的に僕たちが理解できるところであって,たとえば自分が何を表象すると悲しみを感じ,そしてその表象像によって悲しみを感じるのがなぜかということを知っていれば,それを表象しても悲しみを感じないとか,悲しみを感じるとしてもそれ以前のような強い悲しみを感じなくなるということがあるからです。第四部定理四系にあるように,現実的に存在する人間は常に受動に隷属しているわけで,受動から逃れるとは,受動に隷属しなくなるという意味でなく,能動actioの力potentiaが受動の力を上回るようになるということなのです。
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