スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ちぎり賞争奪戦&知性と意志

2021-01-31 19:07:13 | 競輪
 豊橋記念の決勝。並びは深谷-岡村の静岡,浅井‐吉田の中部,野原‐村上の近畿,松浦に佐藤で諸橋は単騎。
 スタートを取りたかったラインが多かったようですが,最内の浅井が誘導の後ろを確保して前受け。3番手に松浦,5番手に深谷,7番手に野原,最後尾に諸橋で周回。残り3周のバックを出てから野原が上昇を開始。諸橋が続きました。ホームで野原が浅井を叩いて前に。その他のラインは動かなかったので,3番手に諸橋,4番手に浅井,6番手に松浦,8番手に深谷の一列棒状となってバックへ。ここから深谷が発進。打鐘から野原もスピードを上げて先行争い。ホームで深谷が野原を叩いて先行。しかしすぐに松浦が発進。岡村が牽制を入れましたが,松浦はそれを乗り越え,佐藤と共に抜け出しました。後方になった浅井が発進。これはいいスピードでしたが佐藤の牽制で失速。しかし勢いをもらったマークの吉田が直線で外から豪快に伸びて優勝。松浦が4分の3車身差で2着。吉田の後ろから直線で松浦と佐藤の間を突いた諸橋が4分の3車輪差で3着。立て直して吉田の外から伸びてきた浅井が4分の1車輪差の4着で佐藤は半車輪差で5着。
 優勝した愛知の吉田敏洋選手は昨年8月の大垣のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2018年3月の名古屋記念以来の3勝目。GⅢは4勝目。このレースは松浦と佐藤が即席のラインを構成しましたのでここが有利とみていました。しかし浅井の調子が上回っていたようです。普通は最終コーナーであれだけの牽制を喰らうと圏外ですが,立て直して2着とは僅差の4着まで追い込んでいることからそれが窺えます。その浅井をマークすることができた分,吉田が有利になったということでしょう。松浦も早めに発進したわりにはよく粘っていると思います。

 スピノザがいいたかったことの核心が,仮定のことであるというのは,神Deusの本性essentiaに知性intellectusが属するとか神の本性に意志voluntasが属するとかいった部分のことです。スピノザは神の本性に知性が属することは認めていませんし,同様に神の本性に意志が属することも認めていません。スピノザが第一部定理一七備考でいいたかったことはその点にあるのであり,そのために原因causaと結果effectusという語句の相違に注目し,結果は原因とは異なるものであるがゆえに結果といわれるということに注意を促したのです。よって神の本性に属するとされる場合の知性は,その結果である筈の人間の知性とは,知性という語句の上で一致するだけであり,同様に人間の意志の原因でなければならない神の本性に属すると仮定された場合の意志は,意志という語句の上で一致するだけなのです。したがってこの場合は,本物の犬と星座の犬ほどの相違があるものについて,同じように知性といいまた意志といっていることになります。しかしそれほど異なったものについて同一の語句で表示するのは適切ではありません。
                                   
 この不適切さを解消するためにはふたつの方法があります。ひとつは,神の本性に知性および意志が属するとして,人間には知性も意志もないということです。もうひとつは,人間には知性がありまた人間は意志するけれど,神の本性には知性も意志も属さないとすることです。このふたつの方法のうち,スピノザは後者を選択したのです。だからスピノザは神の本性に知性が属することも意志が属することも否定します。いい換えれば知性も意志も何らかの絶対的な思惟Cogitatioではなく,思惟の様態cogitandi modiであると規定されることになるのです。それが様態として規定されるなら,神の知性と人間の知性は,あるいは神の意志と人間の意志は,同じ思惟の様態として,同一の記号で表示されても不適切ではないということになるでしょう。この部分は自己原因論争を巡る現在の考察とはまったく関係ないですが,スピノザの哲学を理解するためにはとても重要な点なので,念のために説明しておきました。スピノザが神の本性に知性や意志が属することを否定しているということは,忘れないようにしてください。

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