スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ホープフルステークス&ステノとライプニッツ

2023-12-28 19:07:51 | 中央競馬
 第40回ホープフルステークス。サンライズアースが左前脚の蹄の底の内出血で出走取消,ゴンバデカーブースは感冒で出走取消となって16頭。
 ミスタージーティーは外側によれて1馬身の不利。ヴェロキラプトルとアンモシエラが並んで先行。3番手にサンライズジパング。4番手にシンエンペラー。5番手にショウナンラプンタ。6番手はタリフラインとウインマクシマムとセンチュリボンド。9番手にインザモーメントとシリウスコルト。2馬身差でディスペランツァ。12番手はアドミラルシップとミスタージーティー。14番手にレガレイラ。テンエースワンとホルトバージが並んで最後尾を追走して1コーナーを通過。向正面に入るとショウナンラプンタが単独の3番手に上がり,前の2頭との差は2馬身ほど。向正面の半ばでは内のヴェロキラプトルが単独の先頭に立ちました。前半の1000mは60秒0のミドルペース。
 3コーナーから前の2頭はまた併走になり,外からショウナンラプンタが上がってくるとアンモシエラが後退し始め,単独の2番手までショウナンラプンタが上がったのですが,4コーナーをうまく回れずにかなり外に膨れました。この間に内を回っていたシンエンペラーがヴェロキラプトルの外から接近。それをショウナンラプンタのすぐ内からサンライズジパングが追い,ショウナンラプンタのさらに外からレガレイラ。一旦は抜け出したシンエンペラーを大外から差し切ったレガレイラが優勝。シンエンペラーが4分の3馬身差で2着。サンライズジパングが2馬身差の3着。
 優勝したレガレイラは重賞初挑戦での大レース制覇。7月に函館で新馬を勝った後,10月に東京のオープンに出走して3着。このレースは前走で1800mの重賞かオープンで好走している馬が強いレースで,そのパターンには該当していました。牝馬ですがこのレースに出走してきたのは,適性を重視してのものだったのでしょう。今年の中山競馬場の芝コースはわりと早いタイムが出るのですが,そういう馬場状態はこの馬に向いたのではないかと思います。父は2017年に共同通信杯とアルゼンチン共和国杯,2018年に金鯱賞と大阪杯,2019年にジャパンカップを勝ったスワーヴリチャード。3代母がウインドインハーヘアで祖母の4つ上の半兄がディープインパクト。Regaleiraはポルトガルの宮殿。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はジャパンカップ以来の大レース制覇。第28回,30回,33回に続き7年ぶりのホープフルステークス4勝目。管理している木村哲也調教師はジャパンカップ以来の大レース9勝目。ホープフルステークスは初勝利。

 スピノザがカトリックの立場にあるステノNicola Stenoに対して何かをいっても無効だと考えていたのと同じように,ステノもスピノザのような新哲学の改革者,これはステノ自身が選んだいい方ですが,スピノザのような哲学者にカトリックの立場から何かをいっても無効であると考えていたのだろうと思います。だから上層部からの指示がなければ,ステノがスピノザに書簡を送るということもなかったと思います。
 ステノはカトリックに改宗した後,パリで布教活動に取り組みました。このときにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizと知り合いました。スピノザが死んだ後,遺稿集Opera Posthumaの出版を防ごうとするカトリックの動きがアムステルダムAmsterdamであったということが『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』で示されています。しかしアムステルダムのどこでだれが遺稿集の編集や印刷を企てているのかまで突き止めることができなかったとされています。ライプニッツは遺稿集の編集者であるシュラーGeorg Hermann Schullerと連絡を取っていましたから,具体的にどこで遺稿集の編集がされているのかということは知らなかったとしても,だれが編集をしているのかということは知っていた筈です。その前にライプニッツがスピノザに会いに行ったとき,事前にライプニッツはシュラー以外の遺稿集の編集者たちと会っていたということが『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では指摘されていて,僕も確かにそうしたことがあったと思いますので,ライプニッツはシュラー以外の編集者たちのこともある程度は知っていたと思われます。なのでライプニッツはそうした情報をステノに伝えることはできたのです。もしもライプニッツがそうしていたら,遺稿集の出版は実現しなかったかもしれません。たぶんライプニッツはそれを恐れて知っていた情報をステノには伝えなかったのでしょう。
 こうしたことが実際の出来事だったと推測されるほかの事情が残っています。ライプニッツの知り合いにはパリにやってきたチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがいて,チルンハウスは『エチカ』の草稿を所持していました。書簡七十で示されているように,チルンハウスはそれをライプニッツに見せようと思い,シュラーを介してその許可をスピノザに求めています。ただスピノザは許可しませんでした。

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