先日の棋聖戦第三局の記事におけるLogical Spaceさんとのやり取りの中で,将棋の形勢判断についてどのように考えるかというものがありました。これは将棋だけでなく,僕の哲学的な考え方に大きく関係していますから,ここで詳しく説明します。なおここでは,デカルト・スピノザ哲学に倣い,事物が知性のうちにある場合には客観的にあるといい,事物が知性の外にある場合には形相的にあるといいます。そこで一般的にある事柄が主観的なものとしてあるということは,客観的にあるということに近い意味になりますので,その点にはご注意ください。
指されている将棋の局面,これはもちろん形相的なものです。同様にその局面の内容,すなわちどちらの玉が固いか,とか,どちらの駒の働きが勝っているか,また,どちらが駒得しまた駒損しているか,といったことも形相的にあるといえるでしょう。
形勢というのはそうした諸々の事柄を,人間が表象することによって,まずは客観的に判断されます。これは問題ないでしょう。そこでもしもその判断基準が総合的に形相的にあるならば,形勢というものも形相的にあることになるでしょう。しかし僕はそうしたものは必ずしもないのではないかと考えています。もちろん基準となる各要素はそれぞれ形相的にあると思いますが,それらの基準のどれをどれくらい重視するのかということは,個人の経験等を含めた意味での身体の変状によって相違すると思うからです。
ある同一の局面において,形勢判断が異なる場合があるということは,これを原因として生じると僕は考えます。実際,直接的な契機となった棋聖戦第三局の第2図周辺の局面に関して,僕は先手がいいと判断しましたが,Logical Spaceさんは,少なくとも僕よりは互角に近いと判断しています。またinfosensorさんはむしろ後手の方がよかったのではないかと判断されています。こうしたことはもちろん各々の棋力に大きく影響されるわけですが,それもまた身体の変状の差異であると僕は考えます。ある意味では将棋というゲームは,少なくとも序盤や中盤に関しては,彼我の身体の変状の差異,すなわち判断の差異を競い合うゲームではないかと思うのです。
基本的に僕はこのように考えますので,形勢がよいということがもしも形相的にいい得るなら,そう判断する人が多いという意味に理解します。そこで僕は僕自身の判断において形勢の善し悪しを記述することになりますが,それは必ずしも形相的な意味を伴っていないということにご配慮ください。
第二部定理三六は,スピノザによるその証明に関しても僕の中でかなりの疑問が残っている定理ですので,ここでは証明はしません。ただ,この定理が現在の考察との関連でもたらしてくるであろう意味に関して,考えてみることにします。
ここでスピノザがいっている妥当なあるいは明瞭判然たる観念というのは,もちろん十全な観念のことであると理解して問題ないでしょう。したがってこの定理の意味は,それ自体でみるならば,混乱した観念と十全な観念は同一の必然性をもって生じてくるということにあります。
しかしこの意味は,次の二様に解釈できます。すなわち,人間の精神のうちにある十全な観念と混乱した観念は同一の必然性で生じてくるという解釈と,人間の精神のうちにあるXの混乱した観念と,神のうちにあるXの十全な観念は,同一の必然性で生じてくるという解釈です。しかし現在の考察においては,混乱した観念があるといい得るのであれば,それは人間の精神のうちにあるということを前提としているわけですから,後者の解釈はあまり関係ありません。そこでこの定理の意味を前者の意味で解釈し得るということにします。そもそもこの二様の解釈は,この定理に関する僕の疑問のひとつであって,もしもこの定理が何らかの意味で前者の意味に解釈できないのであれば,この定理の内容がある積極的な意味をもつということはできないのではないかと僕は考えています。
指されている将棋の局面,これはもちろん形相的なものです。同様にその局面の内容,すなわちどちらの玉が固いか,とか,どちらの駒の働きが勝っているか,また,どちらが駒得しまた駒損しているか,といったことも形相的にあるといえるでしょう。
形勢というのはそうした諸々の事柄を,人間が表象することによって,まずは客観的に判断されます。これは問題ないでしょう。そこでもしもその判断基準が総合的に形相的にあるならば,形勢というものも形相的にあることになるでしょう。しかし僕はそうしたものは必ずしもないのではないかと考えています。もちろん基準となる各要素はそれぞれ形相的にあると思いますが,それらの基準のどれをどれくらい重視するのかということは,個人の経験等を含めた意味での身体の変状によって相違すると思うからです。
ある同一の局面において,形勢判断が異なる場合があるということは,これを原因として生じると僕は考えます。実際,直接的な契機となった棋聖戦第三局の第2図周辺の局面に関して,僕は先手がいいと判断しましたが,Logical Spaceさんは,少なくとも僕よりは互角に近いと判断しています。またinfosensorさんはむしろ後手の方がよかったのではないかと判断されています。こうしたことはもちろん各々の棋力に大きく影響されるわけですが,それもまた身体の変状の差異であると僕は考えます。ある意味では将棋というゲームは,少なくとも序盤や中盤に関しては,彼我の身体の変状の差異,すなわち判断の差異を競い合うゲームではないかと思うのです。
基本的に僕はこのように考えますので,形勢がよいということがもしも形相的にいい得るなら,そう判断する人が多いという意味に理解します。そこで僕は僕自身の判断において形勢の善し悪しを記述することになりますが,それは必ずしも形相的な意味を伴っていないということにご配慮ください。
第二部定理三六は,スピノザによるその証明に関しても僕の中でかなりの疑問が残っている定理ですので,ここでは証明はしません。ただ,この定理が現在の考察との関連でもたらしてくるであろう意味に関して,考えてみることにします。
ここでスピノザがいっている妥当なあるいは明瞭判然たる観念というのは,もちろん十全な観念のことであると理解して問題ないでしょう。したがってこの定理の意味は,それ自体でみるならば,混乱した観念と十全な観念は同一の必然性をもって生じてくるということにあります。
しかしこの意味は,次の二様に解釈できます。すなわち,人間の精神のうちにある十全な観念と混乱した観念は同一の必然性で生じてくるという解釈と,人間の精神のうちにあるXの混乱した観念と,神のうちにあるXの十全な観念は,同一の必然性で生じてくるという解釈です。しかし現在の考察においては,混乱した観念があるといい得るのであれば,それは人間の精神のうちにあるということを前提としているわけですから,後者の解釈はあまり関係ありません。そこでこの定理の意味を前者の意味で解釈し得るということにします。そもそもこの二様の解釈は,この定理に関する僕の疑問のひとつであって,もしもこの定理が何らかの意味で前者の意味に解釈できないのであれば,この定理の内容がある積極的な意味をもつということはできないのではないかと僕は考えています。
おっしゃっている4つの要素の各々は形相的にありますが
それらから判断するだけでは客観的なものであって
形相的であるとはいえないというのが僕の考え方です。
ある局面が指しやすいという判断は客観的なもので
これはその局面の形勢がよいという判断と同じだと思うのです。
したがって形勢という将棋用語が形相的な意味であるなら
そもそも形勢ということば自体が意味をもたないか
そう判断する人が多いかのどちらかであると思います。
日本語:形勢の意味
変化する物事の、その時その時の状態や勢力の関係。
Yahooの辞書より
将棋用語:形勢の意味
http://chiba.cool.ne.jp/tk1974/hitorigoto/keisei.htm
1.駒の損得 2.駒の働き 3.玉の堅さ 4.手番
より判断して優勢、勝勢などの判断を行う。
(名人について)
名人にも、日本語と将棋用語の2種類があります。
日本語:名人
技芸にすぐれている人。また、その分野で評判の高い人。Yahooの辞書より
暗算の名人など
将棋用語:名人
将棋・囲碁ではタイトルの称号
spinoza05さんは、日本語の形勢について言及している感じです。
プロ棋士のブログで形勢を使うならば、将棋用語の形勢についてとなるので注意してください。
私は、形勢は将棋用語して使用しているので、4つの要素から正確に判断するように心がけています。
私は、1回だけ将棋連盟の通信を取った経験があります。 その時に形勢について書いてありました。 その時に形勢は将棋用語の1つと認識しました。
なので将棋の形勢は、哲学とは関係なく、あくまでも将棋用語の形勢です。
4つの要素から考えるので、棋力はあまり関係がないと思います。少し言いにくいですが、sponoza05さんも、infosensorさんも4つの要素で考えていない感じです。 あくまでもの自分にとっての指しやすさから形勢を判断している感じです。
それに、本とかあまり出てないので、形勢が将棋用語だと認識していない方が多いのかも・・・。