スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

服従の条件と哲学&方法論の相違

2016-07-01 19:05:31 | 哲学
 スピノザが示した神に対する人間の服従の条件のうち,最初の4つの条件はスピノザが示した神の特性に合致しています。スピノザは聖書と理性は異なった仕方で人を敬虔pietasにすると考えていたのですが,異なった仕方なのになぜ人が同じように敬虔になるのかということの根拠はここに求めることができるでしょう。
                                
 第一の条件は神が存在するということでした。スピノザはこれについては第一部定理一一で示しています。
 第二の条件は神が「唯一」であるということでした。これについては第一部定理一四で示されていて,第一部定理一四系一で念押しされています。
 第三の条件は神が遍在するということでした。これは汎神論と同じ意味です。論理的にいうなら,実在する実体としては神が「唯一」であるということが論証された以上,第一部公理一の意味からこれは必然的に帰結します。
 第四の条件は,神がほかから強制されることはないということでした。他面からいうなら第一部定義七により神は自由であるということでした。これは第一部定理一七で示されていて,第一部定理一七系二では,この意味において自由であるのは神だけであるという仕方で念押しされています。
 これら『エチカ』においてスピノザが示した神の特性が,聖書に記述された神の特性にも合致しているとスピノザは考えたのです。ですから理性によって神を認識した人間が敬虔になるように,聖書に示された神に服従する人間も敬虔になることができるとスピノザは考えたのです。もし聖書にこうした内容を見出せなかったら,スピノザが聖書を評価することもなかったことでしょう。

 僕が解するところによれば,スピノザがロバート・ボイルRobert Boyleとの論争でデカルトの立場に立脚していたと工藤がみなすとき,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の中で最も関係している部分というのは,第二部定理三七備考です。これは第二部の最後の部分に該当します。ただ,僕はこの部分にスピノザが同意していたのかどうかは判別できません。『スピノザ哲学研究』ではスピノザはこの考え方に同調していたといわれていて,かつそれについての説明も十分なものになっています。ただやはり化学的ないしは物理学的な観点となると,僕には断定できるだけの能力が欠けているのです。また,仮にスピノザがこのデカルトの見解を肯定していたのだとしても,ボイルが実際に硝石を用いて行った個別的な事例に対しては,この記述部分をどのように応用するのが適切であるかということは僕にはいっかな分かりません。むしろ重要なのは前者ではなく後者の方であり,後者の判別の方が僕にとってはより難解ですから,この点に関する工藤の主張に対する僕の評価は判断保留ということにしておいてください。
 一方,哲学的な立場からならば,僕にも一定の見解を下すことは可能です。ボイルの実証実験はそれ自体でみれば哲学的な探求ではありませんが,論争の中ではボイルはそれを意図していたかいなかったかは分かりませんが,明らかに哲学的な見解を表明していると僕は思います。そして僕がこの面において,スピノザとボイルの間で何が最も異なっていたと解しているのかといえば,それは哲学的見解そのものではありません。むしろ哲学する方法という意味での,方法論に対する認識の相違なのです。ごく簡単にいうなら,どういう方法によって事物の真理が解明されるのかという点に関して,ボイルの見解とスピノザの見解の間には大きな開きがあると僕は解するのです。そしてこの意味での方法論という観点に注目するならば,スピノザはデカルトが示したような方法論に同調しているのに対して,ボイルはそれに否定的あるいは懐疑的だったとみることができます。なおスピノザはデカルトだけでなくベーコンにも依拠していますが,このことはここでは無視することにします。

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