5日に静岡競輪場で行われた第70回日本選手権競輪の決勝。並びは新田‐渡辺‐松坂の東日本と深谷‐吉田‐近藤の愛知で牛山と稲川と中川は単騎。
渡辺がスタートを取って新田が前受け。4番手に中川,5番手に牛山,6番手に稲川,7番手から深谷の周回に。残り3周のバックを通過すると深谷が上昇。ホームで新田の前に。近藤の後ろに稲川。新田は引かずに吉田の番手で粘る形に。ホームで深谷がインを開けると新田が上昇。渡辺が続き松坂はインを上がれませんでしたが外から上昇し渡辺の後ろにドッキング。近藤が離れて吉田の後ろに牛山‐稲川となって打鐘。吉田に4番手に入れてもらった深谷がすぐに発進したので,遅れた近藤も外から吉田の後ろにドッキング。前の新田は深谷の発進に併せながらスピードアップ。吉田はホームで口が開いた渡辺の後ろに入り,松坂と近藤が競り合いに。新田が深谷を併せきったので深谷は不発に。最後尾になっていた中川がホームから発進。深谷の上をいってバックでは捲りきりました。吉田も自力を出したもののスピードが違いすぎ,千切った中川が優勝。4車身差の2着に吉田。新田の後ろから吉田を追った渡辺が半車身差で3着。
優勝した熊本の中川誠一郎選手は協賛競輪を除くと2009年11月の松阪記念がこれまで唯一のグレードレースの優勝。ただしその実績以上の力量があるのは,オリンピックのメンバーに選出されていることからも明らか。新田のイン粘りは個人的には意外。深谷が内を開けたのは後ろで競らせることを嫌って新田が前に出るように誘ったのかもしれませんが,あの形になってしまうとダッシュ力は新田が上なので,合わされてしまいます。深谷としては失敗のレースだったでしょう。こういう展開になると後方で脚を溜めている選手が有利になりますが,単騎の3人のうち純粋に自力選手といえるのは中川だけでした。稲川か牛山がマークしていれば直線勝負になったかもしれませんが,そういう展開にならなかったのでひとりで抜け出すことに。展開がうまく嵌ったのが最大の勝因ですが,うまく嵌ればGⅠを勝てるだけの脚力があった選手なのも事実だと思います。
『スピノザの方法』に示されている観念が喋るということの具体的内容は,観念が観念されたものの発生を示し,同時に観念されたものの特質も示すということです。このことは単に観念が思惟の様態として別の観念を発生させるという自動機械であるということからは帰結せず,観念がほかの観念によって発生してくるという意味での自動性から帰結しなければなりません。つまり観念は無言ではないということは,その両方の意味を含んでいなければならないのです。僕もこの國分の見解に同意します。
僕の考えだと,この見解は第二部定理七証明の意味と密接に関連します。なぜなら観念が思惟の様態として観念されたものの発生を示し得るのは,観念と観念されたものが同一個体であるからです。いい換えれば國分も,第二部定理七でいわれている物というのを,観念の同一個体としての観念されたものと考えていることになるからです。
さらにこの説明は,國分が観念が実在的有すなわち客観的有であるためには,観念されたものもまた実在的有でなければならないという見解を有していることを強く匂わせているように僕には思えます。観念が観念されたものの発生を示すということは,観念されたものには観念とは別の起成原因があるのであり,その起成原因によって観念されたものは実在するというように解さなければならないと考えるからです。したがっておそらく國分も,事物の本性は事物の本性の観念と同一個体であるという意味で同じものだけれども,事物の本性は事物の観念とは別に,実在的有といわれると解していると僕は判断します。事物の本性の観念は事物の本性の発生を示しますが,事物の本性の起成原因は観念とは別の何かでなければならず,その起成原因によって事物の本性は実在的であることができると考えなければならないからです。もしこれを否定するならば,事物の本性の観念は客観的有ではないと主張するか,そうでなければ知性は事物の本性を認識することが不可能であると主張するかのどちらかでなければならないと僕は考えます。しかし後者はそれ自体で不条理です。そして前者も國分は否定していると僕は解するのです。
渡辺がスタートを取って新田が前受け。4番手に中川,5番手に牛山,6番手に稲川,7番手から深谷の周回に。残り3周のバックを通過すると深谷が上昇。ホームで新田の前に。近藤の後ろに稲川。新田は引かずに吉田の番手で粘る形に。ホームで深谷がインを開けると新田が上昇。渡辺が続き松坂はインを上がれませんでしたが外から上昇し渡辺の後ろにドッキング。近藤が離れて吉田の後ろに牛山‐稲川となって打鐘。吉田に4番手に入れてもらった深谷がすぐに発進したので,遅れた近藤も外から吉田の後ろにドッキング。前の新田は深谷の発進に併せながらスピードアップ。吉田はホームで口が開いた渡辺の後ろに入り,松坂と近藤が競り合いに。新田が深谷を併せきったので深谷は不発に。最後尾になっていた中川がホームから発進。深谷の上をいってバックでは捲りきりました。吉田も自力を出したもののスピードが違いすぎ,千切った中川が優勝。4車身差の2着に吉田。新田の後ろから吉田を追った渡辺が半車身差で3着。
優勝した熊本の中川誠一郎選手は協賛競輪を除くと2009年11月の松阪記念がこれまで唯一のグレードレースの優勝。ただしその実績以上の力量があるのは,オリンピックのメンバーに選出されていることからも明らか。新田のイン粘りは個人的には意外。深谷が内を開けたのは後ろで競らせることを嫌って新田が前に出るように誘ったのかもしれませんが,あの形になってしまうとダッシュ力は新田が上なので,合わされてしまいます。深谷としては失敗のレースだったでしょう。こういう展開になると後方で脚を溜めている選手が有利になりますが,単騎の3人のうち純粋に自力選手といえるのは中川だけでした。稲川か牛山がマークしていれば直線勝負になったかもしれませんが,そういう展開にならなかったのでひとりで抜け出すことに。展開がうまく嵌ったのが最大の勝因ですが,うまく嵌ればGⅠを勝てるだけの脚力があった選手なのも事実だと思います。
『スピノザの方法』に示されている観念が喋るということの具体的内容は,観念が観念されたものの発生を示し,同時に観念されたものの特質も示すということです。このことは単に観念が思惟の様態として別の観念を発生させるという自動機械であるということからは帰結せず,観念がほかの観念によって発生してくるという意味での自動性から帰結しなければなりません。つまり観念は無言ではないということは,その両方の意味を含んでいなければならないのです。僕もこの國分の見解に同意します。
僕の考えだと,この見解は第二部定理七証明の意味と密接に関連します。なぜなら観念が思惟の様態として観念されたものの発生を示し得るのは,観念と観念されたものが同一個体であるからです。いい換えれば國分も,第二部定理七でいわれている物というのを,観念の同一個体としての観念されたものと考えていることになるからです。
さらにこの説明は,國分が観念が実在的有すなわち客観的有であるためには,観念されたものもまた実在的有でなければならないという見解を有していることを強く匂わせているように僕には思えます。観念が観念されたものの発生を示すということは,観念されたものには観念とは別の起成原因があるのであり,その起成原因によって観念されたものは実在するというように解さなければならないと考えるからです。したがっておそらく國分も,事物の本性は事物の本性の観念と同一個体であるという意味で同じものだけれども,事物の本性は事物の観念とは別に,実在的有といわれると解していると僕は判断します。事物の本性の観念は事物の本性の発生を示しますが,事物の本性の起成原因は観念とは別の何かでなければならず,その起成原因によって事物の本性は実在的であることができると考えなければならないからです。もしこれを否定するならば,事物の本性の観念は客観的有ではないと主張するか,そうでなければ知性は事物の本性を認識することが不可能であると主張するかのどちらかでなければならないと僕は考えます。しかし後者はそれ自体で不条理です。そして前者も國分は否定していると僕は解するのです。
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