スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&都市の認識

2015-12-21 21:41:20 | 将棋
 第41期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は佐藤康光九段が1勝,佐藤天彦八段が3勝。
 振駒で佐藤天彦八段の先手。角換わりを目指しましたが佐藤康光九段が拒否して相居飛車の力将棋になりました。後手の陣形はあまりに不自然でしたから,その分くらいは先手が指しやすいという展開がずっと続いていたものと思われます。終盤戦の途中から観戦できました。
                                   
 後手が飛車取りに金を打った局面。先手は無視して▲4三金と打ちました。後手はこのまま角を取られると5五の銀が浮いてしまうので△6六歩と突いて▲同銀右としてから△2六金と飛車を取りました。これには▲3三金の一手。桂馬で取る手もあったかもしれませんが,玉の逃げ道を広げる意味では△同金の方が自然であると観戦していたときには思っていました。そして▲5五銀も当然の手でしょう。後手としてはこの銀を角で取られてはたまらないということでこの手順に進めたということだと思います。ここから△3八飛▲6八歩△3七飛成までは予想していた通りでした。もし5五に角がいるとこの手は成立しません。
                                   
 当面の注目点は後手が入玉できるかどうか。先手は▲3四歩と叩きました。入玉だけを目指すなら△同王でしょうが▲6一角の王手飛車があり,それでは後手は入玉しても点数が足りなくなりますから△3二金と引くのは仕方ないと思いました。先手は▲3一と△同金と捨ててから▲4四銀と進出。次の△3二金は仕方ないと思いますので,先手はと金を犠牲に一手を得しました。
 ここでどう指すかはまったく分かりませんでしたが▲4一角と打ちました。後手は入玉を目指して△3四王。そこで▲6三角成と馬を作りました。飛車を取られてはやはり後手は負けになるので△9二飛と逃げるのも仕方ないところ。そこで▲5六銀と出ました。先手玉はやや危険になるので思い切りがよい手です。後手が△2五王と逃げ出すと▲1八桂。この手は少しも考えていない手でした。
 ▲4五馬と引かれないように何か受けると思っていましたが△9五桂と反撃に転じました。ただですが取ると△7九銀と打たれて怖いので構わず▲4五馬の攻め合いに。この判断は的確であったのではないかと思えます。
 ここで△8七桂成▲同玉としてから△3四金と受けに回ったのは,実戦のように▲5五馬の龍取りに△4六銀と打ったとき,一時的に銀がなくなるので交換を入れておかないと桂馬を取られる順が発生しかねないと判断したからではないかと推測します。そこから▲5四馬△4四金▲同馬△3三金▲5四馬までは後手としては仕方のない手の連続だったと思います。ここで△6六銀と打ったのも予想していた手でした。
 受ける手もありますけど弱い手を指しては意味がないので▲2六桂と金を取りました。こうされては△7七銀成▲同桂△6九角▲8六玉まではまた仕方ない手順だったと思います。入玉すれば点数で勝てる可能性が高まったので△3六角成と指すかなと思いましたが△7八角成でした。先手は寄せるほかなくなっていますがここで▲6七歩と受けたのは当然とはいえ冷静。詰めろがかけられないので△7四歩と打ちましたが▲2七銀という必殺の一手がありました。
                                   
 銀を取られて詰めろではいけませんがそういう局面ではありません。第3図は先手が勝ちの局面のようです。
 佐藤天彦八段の勝利。なので28日に第二局が指されることになりました。

 スピノザとヨハネス・ファン・デル・メールが会ったのがアムステルダムであった可能性が高いと僕が推測したのは,スピノザ自身の半生からでした。スピノザはアムステルダムで産まれ育ったのです。だからその後に住むことになったフォールブルフを都市との対比から田舎と形容するのであれば,対比されている都市はアムステルダムだと解するのが最適だと考えるからです。さらにスピノザは,実名で発刊した『デカルトの哲学原理』に,アムステルダムのスピノザと記述しています。しかし実際に執筆から出版に至ったのは,スピノザがレインスブルフからフォールブルフに移住する時期に重なっていたのです。
 スピノザがわざわざアムステルダムのと表記した理由のひとつとして,哲学する自由との関係が考えられます。すなわちスピノザはアムステルダムのユダヤ人共同体で産まれ育ったのですが,自身が自由に思索するためにはユダヤ人共同体は相応しくなく,むしろそこから解放されたアムステルダム市民になった方が有利だと思ったに違いありません。ですから処女出版のときに,アムステルダムのと意図的に表記したという可能性があります。
 しかし一方で,書き始めたときはレインスブルフ,出版したときにはフォールブルフ住んでいながらアムステルダムのスピノザと書くことのうちには,アムステルダムへの郷愁が含まれているとみることもできるでしょう。いい換えればスピノザにとってアムステルダムは特別の場所だったとみなすことも可能なわけです。そうであるなら後にフォールブルフと対比させられる場所も,ハーグであるよりアムステルダムであった可能性は高いのではないかと僕には思えるのです。
 一方,リューウェルツはハーグのことを都市の外といったわけです。ここから容易に推測できるように,リューウェルツにとっての都市とはアムステルダムだけであり,それ以外の場所はすべて都市の外と表記すべき場所であったのです。もしかしたらリューウェルツはアムステルダムを出たことがなかったのかもしれず,そうした理由からアムステルダムだけを都市とみなしたのかもしれません。ですがこれは,当時のオランダ人,とりわけアムステルダムに住み,あるいは住んだことがある人の,共通認識だったかもしれません。

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