昨日の第13期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
加藤桃子女流三段の先手で西山朋佳女王のノーマル三間飛車の将棋。
第1図で相場は☗7八玉です。ですが☗4六歩と突きました。居飛車は5筋の歩を突くパターンが多いので珍しい手だと思います。
後手が☖6二王と上がったところでいきなり☗4五歩。☖同歩☗3三角成☖同銀と交換して,交換した角を☗6五角と打ちました。後手が☖7四歩と角成の方を受けると☗3二角成☖同金の飛車角交換に持ち込んで,取った飛車を☗4一飛と打ちました。
攻めが成立しているかどうかは正直なところ微妙だと思います。ただこれは先手が研究して進めた手順に違いなく,後手はその場で対応していかなければならないので,その分だけ後手にとっては大変でした。この乱戦を避けようとするなら,もし第1図でこの将棋のように☗4六歩と突いてきたら,☖4三銀と備えておくのがよさそうです。
加藤三段が勝って2勝1敗。第四局は18日に指される予定です。
『主体の論理・概念の倫理』の考察の中の,バディウAlain Badiouに関連する補足はこれですべてです。簡潔にまとめれば,バディウとスピノザの間にあった対立というのは,集合論と公理論の間にある数学的な対立ではなく,多の存在論と一の存在論の間の哲学的な対立であったことになります。バディウはその存在論のことを数学というのですから,確かにバディウからしてみれば,これは哲学的な対立ではなく数学的な対立だったというのが正しいかもしれません。ですがこのブログはスピノザの哲学を扱うブログなのであって,その立場からいえば,そこには哲学的な対立があったと解しておくのが分かりやすいですし,また適切でもあると僕は考えます。
バディウの主張に関する補足はこれだけなのですが,僕としてはこのことと関連して別の考察をしておきたいので,それについてこれから述べていきます。ただ注意しておいてほしいのは,この部分は僕自身の考察なのであって,この考察の契機となっている『〈内在の哲学〉へ』とは無関係であるということです。
『主体の論理・概念の倫理』の考察においては,スピノザは幾何学的方法が数学であると考えていたということを,上野の発言に基づいて考察の前提としていました。スピノザは数学というのを有益な学問である,人間が真理veritasの何たるかを知るために大いに役立つ学問であるという認識cognitioをもっていました。このことは間違いないと僕は思います。ただそのときにスピノザが数学ということで示していたのは,幾何学的方法を用いた公理論のことであり,僕たちが広く数学という語の意味に含ませようとするすべての事柄が含まれていたわけではない可能性があったので,そういう前提は必要であったのです。そこでここからは,幾何学的方法とは無関係,あるいは異なった方法を用いる数学,というのは広い意味での数学ということになりますが,それをスピノザが数学であると認めるのかどうかということを検討しておきたいのです。というのは,これを検討することによって,たとえば集合論の論理構成について,それを数学であるとスピノザは認めるのかということまで結論が出せるのではないかと思うからです。
加藤桃子女流三段の先手で西山朋佳女王のノーマル三間飛車の将棋。
第1図で相場は☗7八玉です。ですが☗4六歩と突きました。居飛車は5筋の歩を突くパターンが多いので珍しい手だと思います。
後手が☖6二王と上がったところでいきなり☗4五歩。☖同歩☗3三角成☖同銀と交換して,交換した角を☗6五角と打ちました。後手が☖7四歩と角成の方を受けると☗3二角成☖同金の飛車角交換に持ち込んで,取った飛車を☗4一飛と打ちました。
攻めが成立しているかどうかは正直なところ微妙だと思います。ただこれは先手が研究して進めた手順に違いなく,後手はその場で対応していかなければならないので,その分だけ後手にとっては大変でした。この乱戦を避けようとするなら,もし第1図でこの将棋のように☗4六歩と突いてきたら,☖4三銀と備えておくのがよさそうです。
加藤三段が勝って2勝1敗。第四局は18日に指される予定です。
『主体の論理・概念の倫理』の考察の中の,バディウAlain Badiouに関連する補足はこれですべてです。簡潔にまとめれば,バディウとスピノザの間にあった対立というのは,集合論と公理論の間にある数学的な対立ではなく,多の存在論と一の存在論の間の哲学的な対立であったことになります。バディウはその存在論のことを数学というのですから,確かにバディウからしてみれば,これは哲学的な対立ではなく数学的な対立だったというのが正しいかもしれません。ですがこのブログはスピノザの哲学を扱うブログなのであって,その立場からいえば,そこには哲学的な対立があったと解しておくのが分かりやすいですし,また適切でもあると僕は考えます。
バディウの主張に関する補足はこれだけなのですが,僕としてはこのことと関連して別の考察をしておきたいので,それについてこれから述べていきます。ただ注意しておいてほしいのは,この部分は僕自身の考察なのであって,この考察の契機となっている『〈内在の哲学〉へ』とは無関係であるということです。
『主体の論理・概念の倫理』の考察においては,スピノザは幾何学的方法が数学であると考えていたということを,上野の発言に基づいて考察の前提としていました。スピノザは数学というのを有益な学問である,人間が真理veritasの何たるかを知るために大いに役立つ学問であるという認識cognitioをもっていました。このことは間違いないと僕は思います。ただそのときにスピノザが数学ということで示していたのは,幾何学的方法を用いた公理論のことであり,僕たちが広く数学という語の意味に含ませようとするすべての事柄が含まれていたわけではない可能性があったので,そういう前提は必要であったのです。そこでここからは,幾何学的方法とは無関係,あるいは異なった方法を用いる数学,というのは広い意味での数学ということになりますが,それをスピノザが数学であると認めるのかどうかということを検討しておきたいのです。というのは,これを検討することによって,たとえば集合論の論理構成について,それを数学であるとスピノザは認めるのかということまで結論が出せるのではないかと思うからです。
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