スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

先生の忠告&第一部定理八備考一

2014-04-07 19:07:41 | 歌・小説
 先生がKを同居させようとして奥さんの拒絶にあったとき,第三部定理三一第三部定理三二に示されていることを,奥さんはよく心得ていたけれども,先生は理解していなかったと推測されます。『こころ』には先生がそれを理解するようになったということを示す明瞭なテクストはありませんが,Kの自殺の後には,先生はそれを理解したと判断するのが妥当であろうと思います。したがって『こころ』の書き手として設定されているわたしと先生が出会った時点では,先生はこのことを弁えていただろうと僕は判断します。
                         
 それと同時に,第三部定理三八に示されていることも,その時点での先生は理解していたと僕は考えています。それはテクストにも示されているように思われるからです。
 上の十四で,先生はわたしに,人間全体を信用していないと言い,だから私も先生のことを信用しないようにと言い添えます。信用するといつか欺かれたと感じ,残酷な復讐をすると予言し,さらに一般論として,かつてある人の前に跪いたという記憶が原因となり,後には同じ人間の頭上に足を載せるという結果を産出するのだという意味の忠告をします。この忠告内容は,第三部定理三八の内容に合致しているといえるでしょう。
 先生は経験によって人間の心情のダイナミズムを知るようになったというのが,『こころ』の一貫した内容になっています。だからこの点も,先生の経験に裏打ちされていると判断するべきだと思いますが,下の先生の手記のうちに,はっきりとした経験を見出すことはできません。ただかつては確かに尊敬していたKに対する先生の優越感があったということは,先生がこの心のダイナミズムを経験的に知り得た理由になるとはいえるでしょう。
 一方,この忠告が現実化したのかどうか,つまりわたしは後に先生の頭上に足を載せるような心情を有するに至ったのかどうかは,『こころ』という小説が,ストーリーとしては先生の自殺の時点で終焉しているので不明になっています。ただ,現実化した可能性は大きいだろうと僕は考えています。

 無限様態は必然の第一のタイプにおいて必然的であり,かつ無限です。そしてこのことは実体および属性にも同一です。このことから,一般的な意味において,あるものが必然的であるということ,いい換えれば永遠であるということと,そのあるものが無限であるということの間には,不可分な関係があるのではないかと推測されます。そして実際にこのことは,スピノザの哲学のテーゼのひとつとして成立していると僕は考えます。
 このテーゼと最も深く関係するのは,おそらく第一部定理八です。スピノザはこの定理を背理法で証明しています。そして続く第一部定理八備考一では,次のようにいっています。
 「単に定理七だけからして,すべての実体は無限でなければならないことが出てくる」。
 定理七はもちろん第一部定理七のことであり,そこでは実体が自己原因であるということ,つまり第一部定義一によりその本性にそれ自身の存在が含まれるので,永遠であるということが示されています。これが第一部定理八の別の証明です。つまり有限であるということが本性の部分的な否定を含むのに対して,無限であるということが本性の絶対的肯定であるということさえ知性が把握していれば,その知性は永遠であるものは無限でなければならないということを自動的に認識するのだとスピノザは主張しています。そしてこの主張を覆すということは不可能でしょう。
 一方,ある事物が永遠であるということは,第一部定義八に示されています。したがって実体や属性が永遠であるといわれるのだとしても,あるいは様態が永遠であるといわれるのだとしても,それは一義的にそのようにいわれるのです。いい換えれば数的区別可能な複数の永遠があるのではありません。つまりAの属性が永遠であるということと,Aの属性の無限様態が永遠であるといわれることのうちに,永遠性に関する相違は何もないのです。
 そして永遠であるものが無限であるなら,同じことが無限にも妥当します。つまり数的に区別可能は複数の無限は存在しないことになります。 

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