GⅡでは賞金額が高いため,年末のグランプリ出場権を左右するケースもある共同通信社杯競輪。今年は昨日が決勝でした。
山田選手がSを取って前受け。3番手に山崎選手,6番手に平原選手,8番手が海老根選手という周回に。
海老根選手が上昇していくと,残り2周のホームでは平原選手,さらに山崎選手も上がっていってごちゃごちゃしましたが,結局,バックでまず平原選手が前を叩き,それを外から山崎選手が交わしていっての先行という形に。打鐘で山田選手がインを上昇し,4番手を取りましたが,坂上選手は付ききれず,5番手に平原選手。バックでは後方の海老根選手,さらに平原選手と捲り発進。平原選手を牽制するように佐藤選手も発進し,少し遅れたようにも見えたのですが,そのまま抜かせずに佐藤選手が優勝。食い下がった平原選手が2着。再度インを上昇してきた山田選手の影響で態勢的には苦しくなった伏見選手ですが,3着は確保しました。
優勝した岩手の佐藤友和選手は2月の東王座戦以来となるビッグ3勝目。ただしすべてGⅡですので,GⅠ制覇が待たれます。もちろんGⅠ初優勝の最短距離にいる選手でしょう。ただしここは山崎選手の番手を回った上,どかんと行ってもらいましたし,番手を攻めそうな選手が見当たらないなど,恵まれていた部分もあります。ただ,自力で動いたレースも含めて,この開催は好調という印象でしたので,この調子を維持していってほしいところです。
明日は浦和で埼玉栄冠賞。一応ナイキアディライト◎が中心。本線はモエレラッキー○とデスモゾーム▲で,次がクレイアートビュン△。ナイキデラックス△も。
さて,価値観ということになれば,善と悪ということを外すわけにはいきません。そこで最後に,排尿という運動の善悪ということをどのように考えればいいのかということを,スピノザの哲学の観点から考えておくことにします。なお,善悪は『エチカ』でそれぞれ定義されていますので,これはスピノザが用いるように用いなければなりません。第四部定義一と第四部定義二がそれにあたります。またこのとき,第四部定義一の方でいわれている有益であるということがどういうことであるのかということは問題になるのですが,ここでも,これまでそうしてきたように,これを第三部定理七に依拠して理解するということにします。つまり,Aというものがあるときに,Aの現実的存在を維持しまた促進するようなものについて,これをAにとっての善であると理解するということです。何度もいっていることですが,あるものがAにとってはその存在を促進するけれども,Bにとってはそうではないというケースはいくらでも考えられますので,スピノザの哲学における善悪は,普遍的な概念ではありません。むしろ各々のものにとって,善であるものと悪であるものがあるのですし,同じものがAにとって,あるときには善であるけれども別のときには悪であるという場合も想定されます。つまり各々のものに,それぞれのときに,善であるものと悪であるものがあるという方がなお正確でしょう。
現在の考察はあくまでも人間の身体における排尿という運動に関係しているわけですから,まずは,この排尿という運動が,人間にとって善であるか悪であるかということを考えなければいけないのですが,その前に,これら善悪のテーマは明らかにある認識を対象にしていますから,どのような場合に人間はあるものを善と認識し,また悪と認識するのかということを考えておく必要があります。
山田選手がSを取って前受け。3番手に山崎選手,6番手に平原選手,8番手が海老根選手という周回に。
海老根選手が上昇していくと,残り2周のホームでは平原選手,さらに山崎選手も上がっていってごちゃごちゃしましたが,結局,バックでまず平原選手が前を叩き,それを外から山崎選手が交わしていっての先行という形に。打鐘で山田選手がインを上昇し,4番手を取りましたが,坂上選手は付ききれず,5番手に平原選手。バックでは後方の海老根選手,さらに平原選手と捲り発進。平原選手を牽制するように佐藤選手も発進し,少し遅れたようにも見えたのですが,そのまま抜かせずに佐藤選手が優勝。食い下がった平原選手が2着。再度インを上昇してきた山田選手の影響で態勢的には苦しくなった伏見選手ですが,3着は確保しました。
優勝した岩手の佐藤友和選手は2月の東王座戦以来となるビッグ3勝目。ただしすべてGⅡですので,GⅠ制覇が待たれます。もちろんGⅠ初優勝の最短距離にいる選手でしょう。ただしここは山崎選手の番手を回った上,どかんと行ってもらいましたし,番手を攻めそうな選手が見当たらないなど,恵まれていた部分もあります。ただ,自力で動いたレースも含めて,この開催は好調という印象でしたので,この調子を維持していってほしいところです。
明日は浦和で埼玉栄冠賞。一応ナイキアディライト◎が中心。本線はモエレラッキー○とデスモゾーム▲で,次がクレイアートビュン△。ナイキデラックス△も。
さて,価値観ということになれば,善と悪ということを外すわけにはいきません。そこで最後に,排尿という運動の善悪ということをどのように考えればいいのかということを,スピノザの哲学の観点から考えておくことにします。なお,善悪は『エチカ』でそれぞれ定義されていますので,これはスピノザが用いるように用いなければなりません。第四部定義一と第四部定義二がそれにあたります。またこのとき,第四部定義一の方でいわれている有益であるということがどういうことであるのかということは問題になるのですが,ここでも,これまでそうしてきたように,これを第三部定理七に依拠して理解するということにします。つまり,Aというものがあるときに,Aの現実的存在を維持しまた促進するようなものについて,これをAにとっての善であると理解するということです。何度もいっていることですが,あるものがAにとってはその存在を促進するけれども,Bにとってはそうではないというケースはいくらでも考えられますので,スピノザの哲学における善悪は,普遍的な概念ではありません。むしろ各々のものにとって,善であるものと悪であるものがあるのですし,同じものがAにとって,あるときには善であるけれども別のときには悪であるという場合も想定されます。つまり各々のものに,それぞれのときに,善であるものと悪であるものがあるという方がなお正確でしょう。
現在の考察はあくまでも人間の身体における排尿という運動に関係しているわけですから,まずは,この排尿という運動が,人間にとって善であるか悪であるかということを考えなければいけないのですが,その前に,これら善悪のテーマは明らかにある認識を対象にしていますから,どのような場合に人間はあるものを善と認識し,また悪と認識するのかということを考えておく必要があります。