スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

久留米つつじ賞&個別の力

2008-10-11 19:19:15 | 競輪
 共同通信社杯競輪2日目のメーンは,恒例となっている共同賞。今年は久留米つつじ賞として行われました。
 何選手かが飛び出しましたが,Sを取ったのは神山選手で小嶋選手の前受け。3番手に石丸選手,5番手に山崎選手,8番手から石橋選手という周回になりました。
 残り2周のホームに入るところから石橋選手が一気に踏み上げていくと,山崎選手がこのラインに続きました。バックで小嶋選手が引くと,山崎選手がこれを叩いて先行態勢に。4番手を小嶋選手がうまく確保すると,外から石丸選手が発進。僕には予想外だったのですが,石丸選手のかまし先行という形になりました。山崎選手が一番前にいたので3番手。バックから後ろを待たずに発進。小嶋選手も捲りましたが4コーナーでは一杯で,北日本勢の直線勝負。番手の佐藤選手が抜け出し1着,伏見選手が山崎選手を僅かに捕えて2着,山崎選手が3着となっています。
 山崎選手にとっては願ってもないといえるような展開で,本来ならば勝ちパターン。ただ後ろが佐藤選手-伏見選手であったから差されたということだろうと思います。逆にいえば佐藤選手や伏見選手もそれだけ強いということで,この3人が連係というケースでは,ほかの選手もよほど工夫しなければいけないということを示していると思います。

 人間が排尿という運動を我慢する力というのは,一般的な意味での人間の身体の本性に属するような力とは考えられ得ないわけですから,こうした力というのは,個々の人間の身体の本性が含んでいるものとして考えられなければならないわけです。したがって,たとえばAという人間とBという人間がいて,これらふたりの人間が排尿という運動をする場合には,AもBも共に同じ人間の身体の本性に属する力としてこの運動をなすわけですが,排尿という運動を我慢するという場合には,これとは違って,AはAの身体の本性に属する力として我慢するのであり,BはBの身体の本性に属する力として我慢するのであるということになります。
 そこでこのことから,次のことが帰結すると思います。もしも人間が排尿という運動をなす場合には,個々の人間の間で各々の身体の本性の力としての完全性を比較することができるでしょう。よってもしも,Aは排尿という運動をなし得るが,Bはなし得ないということがあるならば,この限りにおいて,あくまでもこの限りにおいてではありますが,Aの完全性すなわち実在性はBの完全性を上回るということが可能であるとはいえます。しかし我慢する場合には,AはAの本性によって我慢し,BはBの本性によって我慢するのですから,この場合には完全性を比較することができません。事物の本性というのは,第二部定義二にあるように,その事物の存在を肯定するのであって,そこには何ら完全性に差異はなく,比較できません。そしてこの場合の完全性の比較は,そのような本性の比較にほかならないからです。よって,Aの身体はこの我慢の限界点が低いために医学的には病気と規定され,Bの身体はそうではないからといって,Aの身体はBの身体よりも不完全であるということには,少なくともスピノザの哲学の考え方からはならないのです。
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