女流王位戦五番勝負第三局。
第一局と同様,石橋女流王位の3手目▲6六歩に清水市代女流二冠の右四間飛車。先手が第一局とは違った対応をして第1図。
ここは右銀が進出。後手は保留していた8筋の歩を突いて飛車も8筋に戻すというのは,最初の作戦選択から考えれば不本意な筈で,これは先手の作戦勝ちといえそうです。この後,先手の攻めはやや変調にも感じられましたが,この将棋は観戦し始めてからの最終盤が面白かったのでそこは割愛。
△6八金と取るのでは遅いので3九の飛車を3八に成ったところ。ここで▲5八銀と打ち,△同銀成で後手の攻めを遅らせて▲5四桂も有力だったようですが,▲7二銀と一気に決めにいきました。△同飛なら▲5四桂が詰めろなのでこれもいい感じはする手。実戦もそう進み,第3図に。
この△7五歩では△5二銀も有力だったようです。▲6三金打から飛車を取る手はどうかと検討していたら▲同歩。このあたり,もう1分将棋なので結論を出す間もなく手が進んでいってしまいます。△8四角に▲7六金と縛りました。△7五飛で次が分からないと考えていたら,今度は△5四銀で第4図。
ここから▲7四金で詰ましにいきましたが,これは詰まずに後手の勝ちに。ここで▲8五金と出ると先手玉は詰まないと思われるのでこう勝負する手はあったかもしれません。
かなり白熱した戦いで,検討しがいのある将棋だったと思います。僕の力では最終的な敗着が分かりませんが,少なくとも先手に勝ちがあったと思われ,石橋王位には残念な一局だったでしょうか。第二局とは逆に,時間の切迫が響いてしまったかもしれません。
清水二冠がひとつ凌いで1勝2敗に。第四局は29日に指されます。
排尿の完全性については,それが失禁であろうと放尿であろうと,排尿という運動は人間の身体一般の本性に依拠するような力であるとみなされなければならず,逆に排尿を我慢するような完全性あるいはその力は,諸個人の身体の本性に依拠するような力なので,Aという人間が多くの人間よりもこの我慢する力をもっていないとしても,それはAという人間の不完全性を意味しないという結論を得ました。ところが排尿の善悪の特徴は,これとは少し違っていると僕は考えています。それはいうまでもなく,事物の完全性というものが,その事物の本性の力という観点から,それを形相的なものと考えても客観的なものと考えても同一であるのに対して,善悪というのは,諸個人の認識の問題であるので,いくらそれがスピノザの哲学の基本的な考え方になるであろうからといって,本当はそれを形相的に考えることは許されず,一人ひとりの人間の精神のうちにあるような,客観的なものとしてのみ考えなければならないからです。
ただし,経験論的な観点から示したように,確かに僕たちは排尿という運動によって喜びを感じるということはあるわけで,またそれが意識されない場合は,おそらく意識と無意識の差異という観点,また移行の大きさという観点の両者によって説明できると僕は思いますから,やはり基本的には排尿という運動は,どんな人間にとっても第一義的には善であると思います。しかし,だから排尿という運動は普遍的に善である,どんな人間も必然的に排尿という運動を善であると認識するということはできないだろうと僕は思います。いい換えれば,排尿という運動が,ある人間にとって,ある場合には悪であるということ,つまり排尿という運動が悪と認識される場合もあり得ると思うのです。
第一局と同様,石橋女流王位の3手目▲6六歩に清水市代女流二冠の右四間飛車。先手が第一局とは違った対応をして第1図。
ここは右銀が進出。後手は保留していた8筋の歩を突いて飛車も8筋に戻すというのは,最初の作戦選択から考えれば不本意な筈で,これは先手の作戦勝ちといえそうです。この後,先手の攻めはやや変調にも感じられましたが,この将棋は観戦し始めてからの最終盤が面白かったのでそこは割愛。
△6八金と取るのでは遅いので3九の飛車を3八に成ったところ。ここで▲5八銀と打ち,△同銀成で後手の攻めを遅らせて▲5四桂も有力だったようですが,▲7二銀と一気に決めにいきました。△同飛なら▲5四桂が詰めろなのでこれもいい感じはする手。実戦もそう進み,第3図に。
この△7五歩では△5二銀も有力だったようです。▲6三金打から飛車を取る手はどうかと検討していたら▲同歩。このあたり,もう1分将棋なので結論を出す間もなく手が進んでいってしまいます。△8四角に▲7六金と縛りました。△7五飛で次が分からないと考えていたら,今度は△5四銀で第4図。
ここから▲7四金で詰ましにいきましたが,これは詰まずに後手の勝ちに。ここで▲8五金と出ると先手玉は詰まないと思われるのでこう勝負する手はあったかもしれません。
かなり白熱した戦いで,検討しがいのある将棋だったと思います。僕の力では最終的な敗着が分かりませんが,少なくとも先手に勝ちがあったと思われ,石橋王位には残念な一局だったでしょうか。第二局とは逆に,時間の切迫が響いてしまったかもしれません。
清水二冠がひとつ凌いで1勝2敗に。第四局は29日に指されます。
排尿の完全性については,それが失禁であろうと放尿であろうと,排尿という運動は人間の身体一般の本性に依拠するような力であるとみなされなければならず,逆に排尿を我慢するような完全性あるいはその力は,諸個人の身体の本性に依拠するような力なので,Aという人間が多くの人間よりもこの我慢する力をもっていないとしても,それはAという人間の不完全性を意味しないという結論を得ました。ところが排尿の善悪の特徴は,これとは少し違っていると僕は考えています。それはいうまでもなく,事物の完全性というものが,その事物の本性の力という観点から,それを形相的なものと考えても客観的なものと考えても同一であるのに対して,善悪というのは,諸個人の認識の問題であるので,いくらそれがスピノザの哲学の基本的な考え方になるであろうからといって,本当はそれを形相的に考えることは許されず,一人ひとりの人間の精神のうちにあるような,客観的なものとしてのみ考えなければならないからです。
ただし,経験論的な観点から示したように,確かに僕たちは排尿という運動によって喜びを感じるということはあるわけで,またそれが意識されない場合は,おそらく意識と無意識の差異という観点,また移行の大きさという観点の両者によって説明できると僕は思いますから,やはり基本的には排尿という運動は,どんな人間にとっても第一義的には善であると思います。しかし,だから排尿という運動は普遍的に善である,どんな人間も必然的に排尿という運動を善であると認識するということはできないだろうと僕は思います。いい換えれば,排尿という運動が,ある人間にとって,ある場合には悪であるということ,つまり排尿という運動が悪と認識される場合もあり得ると思うのです。