21日のコメントで,アランの『スピノザに倣いて』を推薦しましたが、この本についてちょっと注意したいことがあります。
スピノザはほとんどの場合mens(精神)といい,anima(心・魂)とはまずいいません。ところがこの本,アランのフランス語で何といわれているか定かでありませんが,魂といわれています。この訳はよくない。「精神」といわれるのと「魂」といわれるのとでは,受ける印象がまったく違うと思います。なので,この本に出てくる「魂」は,すべて「精神」と変換してお読みください。
第二部定理三二でいわれているのは,単に神の中にある観念はすべて真の観念であるということではないと思います。
真の意味は,ある観念があって、その観念がどんな仕方であれ、ある仕方で神と関係付けられさえすれば,その限りで,その観念は真の観念であるということだと思います。だから,ある人間の精神の本性を構成する限りでの神のうちに,その人間の身体の中に起こることの観念があるなら,その限りでこの観念は真の観念なのです。
つまり,ある人間の精神の本性を構成する限りでの神とは,その人間の精神にほかならないのですから,人間の精神は,自分の身体の中に起こることについてはすべて,その真の観念を有するということになると考えられます。
スピノザはほとんどの場合mens(精神)といい,anima(心・魂)とはまずいいません。ところがこの本,アランのフランス語で何といわれているか定かでありませんが,魂といわれています。この訳はよくない。「精神」といわれるのと「魂」といわれるのとでは,受ける印象がまったく違うと思います。なので,この本に出てくる「魂」は,すべて「精神」と変換してお読みください。
第二部定理三二でいわれているのは,単に神の中にある観念はすべて真の観念であるということではないと思います。
真の意味は,ある観念があって、その観念がどんな仕方であれ、ある仕方で神と関係付けられさえすれば,その限りで,その観念は真の観念であるということだと思います。だから,ある人間の精神の本性を構成する限りでの神のうちに,その人間の身体の中に起こることの観念があるなら,その限りでこの観念は真の観念なのです。
つまり,ある人間の精神の本性を構成する限りでの神とは,その人間の精神にほかならないのですから,人間の精神は,自分の身体の中に起こることについてはすべて,その真の観念を有するということになると考えられます。