できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

いろいろ言いたいことあるのですが(1)

2011-08-04 09:30:57 | ニュース

夏休みに入って比較的時間の余裕がとれるので、「いろいろ言いたいことあるのですが」という漠然としたタイトルで、できるだけ毎日、このブログの更新を続けていこうと思います。とはいえ私のすることですので、ほかの用事とかとの兼ね合いや、家事・育児などでくたびれたときなどは休みますので、「やっぱり不定期更新じゃないか」ということになるかもしれません。そのときはお許しください。

さて、前回のこのブログでは、7月27日(水)の衆議院厚生労働委員会での児玉龍彦さん(東京大学アイソトープ総合センター長)の参考人質疑の様子を、YouTubeの動画とその様子を文字起こししてくださったブログの両方からお伝えしました。その後1週間ほど経過しましたが、児玉さんの参考人質疑への関心はとても高く、このブログへのアクセスもけっこうあったようで、いつもの5倍くらいの訪問者がありました。

ただ、ツイッターなどを見ているとわかるのですが、ネット上では児玉さんのこの参考人質疑の様子は高い関心を呼んでいるのですが、新聞やテレビなどのマスメディアでの関心はあまり高くありません。それこそ、この一週間のうちに、どのくらい、新聞やテレビなどは児玉さんの参考人質疑のことをとりあげたのでしょうか。それを考えればわかるように、このたびの東日本大震災・原発事故の問題に関して、いまの新聞・テレビなどから「もれている」話はたくさんあるようです。しかも、その「もれている」話のなかに、ほんとうは「こっちのほうこそ重要ではないか?」と思われるものは、たくさんあるような気がしてなりません。

で、ここからが余談というか、教育の問題にかかわるわけですが。よく最近の学校で、「新聞を使った授業」とか、「新聞を活用したメディア・リテラシー教育」とか、そういうことに取り組んでいるところがでてきましたよね。同じテーマをあつかった新聞各紙の記事を読み比べてみるとか、記事の中身を検討してある社会問題の取り上げ方を批判的に見ていくとか・・・・。それはそれで大事な取り組みだと思うし、意味がないとは思わないのですが、「はたして、それだけで十分なのかな?」という気もしなくはありません。

なにしろ、このたびの児玉さんの話のように、そもそも新聞各社が、ツイッターのような他のメディアから発信されているような情報のいくつかを取捨選択して取り上げて記事にしているわけですよね。だとすれば、「新聞が扱っていないこと」をも視野に入れたうえで、「新聞というメディアの情報の取り上げ方の偏り」を問題にしなければいけないのではないか、と思うのです。また、新聞各社の配信記事がもとになってインターネット上のニュースが流れ、それをもとに議論がなされているのであれば、「ネット空間上の情報もまた、ある方向性に偏りがある」と考えたほうがいいのかもしれません。そして、テレビ・ラジオもまたニュースなどで流す情報が新聞各紙の紙面と連動しているのであれば(たとえば、朝の情報バラエティ番組などは、新聞各紙朝刊の見出し紹介から話をはじめますよね)、同様のことがいえるかと思います。

こんな感じで、新聞の記事、テレビ・ラジオの番組や、この3つのメディアからさらにインターネット上に配信されている記事については、<その「作り手」側の取捨選択や編集・配信の意図がなんらかの形で働いているもの>として受け取るということ。具体的なメディア(たとえば新聞など)の伝えている情報の中身の検討以上に、「メディアってしょせん情報の「作り手」の側が、何かを伝えているかわりに何かを意図的に伝えなかったり、隠したりしてるものだよね」と、少し引いたところで見るような態度。そんな態度をいま、メディア・リテラシーの学習のなかで、子どもの頃からどのようにして形成するのかが今、問われているような気がしてきました。

ほかにもまだ、例の子ども手当をめぐる自民・公明・民主3党の動きを見ているとつくづく「いやになる」という話とか、大阪維新の会や橋下府政をめぐる話とか、最近の人権教育系の研究動向などに関する話とか、いろいろ言いたいことは多々あるのですが、今日のところはまずこのへんでいったん、終えておきます。


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