できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

今日のぼやき(その2)~人間や社会・文化の「急には変えられない部分」も大事にしてほしい~

2020-06-09 10:01:37 | 今日のぼやき

「今日のぼやき」の2つめ、書いておきます。これもここ最近、よく思うことです。

さっき郵便局に行く前にラジオの国会中継を、ほんの数分だけ聴きました。ただ、早く郵便物を出したくて、ラジオのスイッチをすぐに切ったので、続きの議論はわかりませんが・・・。

さて、そのときに登壇していた与党の某議員の質問内容から察するに、この方はこのたびの新型コロナ感染症を機会に、より経済効率に応じて人・もの・金・情報をフレキシブルに動かせる社会を構想したいようでした。わずかな時間しか聞いていないので、私の理解のまちがいや聞き間違いもあるかもしれませんが。

でも、残念ながら、そもそも人間も社会も、私から見ていると、この議員さんが思っているような存在ではないと思います。人の暮らしも心も、そう簡単に、急には変われないかと。また、そういう人間が居りあって生きている以上は、人のつくりだす社会のなかにも「そう簡単に、急には変われない」部分がたくさんあるのではないかと。

まるで為替市場か株式市場で相場価格があがればお金をつぎ込み、価格が下がればお金をひっこめるかのように、人間の暮らしや心が自由自在に、フレキシブルに動かせるような、そんな社会への変革をこの議員さんが今、新型コロナ感染症を機会に考えているのだとしたら…。「そんなこと無理だし、やっちゃいけない」と言いたくなります。

そもそも、農作物も工業製品、建造物といった物質的なものは、情報やお金のようには、簡単につくりだせないものでは? だいたい、それが簡単にできるのだったら、このたびの新型コロナ感染症で、病院のベッドに人工呼吸器や医療用ガウンの不足、さらにはマスク不足なんて事態も起きなかったでしょう。また、今頃は新型コロナ感染症の特効薬も、予防薬というか、ワクチンなんかもできているでしょう。残念ながら、人間のもっている技術開発力を含めたマンパワーと、それをささえる資源は、「有限」です。それほどフレキシブルに動かせるものではありません。

ましてや上記の「物質的なもの」以上に、「人間」という存在はそう簡単に生まれないし、動かせないわけでしょう。だからこそ少子高齢化社会や人口の過密化・過疎化が進展しているわけですよね。また、今回の新型コロナ感染症の対応でも、各地で医療従事者の不足、過重労働や疲弊が起きてしまったわけですよね。ましてや、ある日突然「お前、新型コロナの患者の治療に関する研究をしろ」と私に言われても、無理ですよ。人文系、それも教育学系の研究と実践したことしかないわけですからね、私。

本気である分野に関する研究や実践を活性化し、人を育てようと思ったら、もう何十年も前から人とお金とモノをつぎ込んで、ある程度の失敗も予算が無駄に終わる可能性も「こみ」で、「それでも、これをやっておかないと、後々とんでもないことになる」と思ってやらないと…。それこそ敗戦後日本の医学のなかで、特にここ最近の約20年位のあいだ、いままで感染症対策にどれだけの人とお金とモノがつぎ込まれてきたんですかね? その結果が、この現状じゃないんですかね? そんなに研究も実践も、人材育成も、株式市場や為替市場を動かすような感覚で「フレキシブル」な対応、できないですよ。

そう考えたら、私が先ほどの国会中継を聴いている限りでしかないのですが、この質問していた議員さんの議論の前提においているその構想自体に、そもそもの無理がある。というか、その構想を支えている人間観や社会観などに、そもそも無理があるというしかない。

というか、「人間の心もからだも、そして、そういう人間が折り合って成立している社会も、もともと、そんなにフレキシブルな対応ができるようにはつくられていないですよ。だからこそ、経済効率最優先で動こうと、フレキシブルに人・カネ・モノ・情報を動かすことだけを新型コロナ後の社会の構想として考えていると、必ず失敗しますよ。むしろ、その『逆』のことを考えておかないと、かえって社会も人も安心して暮らせないって思うんですけど」と、この議員さんにはまず、伝えたくなりました。

あ、ついでにいっておきますと、このことは「教育」や「学校」についてもいえますからね。「学校改革」とか「教育改革」について論じるのが大好きな人、教育や学校の「改革」ファンタジーにとりつかれているような人が、左派・リベラルの人にも右派、保守の人にも多数居ますが…。

なかには「オルタナティブな教育」とか言うている人々も、身近なところにけっこういます。で、そういう人たちと仲良くつきあっていきたい気持ちも、こちらにはないわけでもないのですが…。

でも、その「改革」とか「オルタナティブ」とかいうことの時間のペースを、「100年」という単位で考えるのか、「10年」なのか、「1年」なのか、「1か月」なのか、「あしたから」なのか。そういうところで見ていくと、「私、この人の言う改革やオルタナティブなペースには、とてもついていけない。もうちょっと、ゆっくり考えてほしいなぁ。それ、100年かかってどこまで実現するかって単位の話だよね~(だからこそ「急がないで、ぼちぼち、できるところからゆっくり変えていこうよ…」)」と思うときがありますね。

なにしろ…。「人間なんて、急には変われないよ」「だからこそ古代ギリシャの哲学とか、ブッダの思想とか、孔子の本とか、イスラムの教えやキリストの教え等々が、今もなお読まれているわけで」「それこそ日本の古典文学だって、現代社会を生きる私たちの心情にも相通じる何かがあるから読み込めるわけだよねぇ」と。「古典」がわりと好きな私などは、そう思ってしまうんですよね。

だから、「教育」でも「学校」でもそうなんですが、急に「あれを変えよう」とか「これを変えたい」とか言い出すような人たちには、「もう、つきあっていけないな~。疲れるわ…」と思うことが増えてきました。私は私のペースで、人間や社会・文化のそう簡単には変えられない、変わらない部分を見つめながら、のんびり、じっくりとものを考えていきたいなあって思います。

 


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