できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

2012冊目:高木慶子ほか『〈悲嘆〉と向き合い、ケアする社会をめざして』

2014-10-07 22:59:58 | 本と雑誌
2012冊目はこの本。
高木慶子・上智大学グリーフケア研究所・柳田邦男『〈悲嘆〉と向き合い、ケアする社会をめざして JR西日本福知山線事故遺族の手記とグリーフケア』(平凡社、2013年)

ほとんどこの本で述べられていることには共感・納得するのだけど、一点だけ「ちがうな」と思ったのは、柳田邦男さんの「2.5人称の視点」という表現。
これは第三者的な視点から人の死を語る立場と、親族など身近な人々の視点から死を語る立場の「あいだ」という意味で使われている表現なのですが・・・。
しかし、屁理屈みたいな言い方になりますが、現実の人間は「0.5人称」なんて視点にはたてません。
実際にできることはただ、「第三者」的な視点から人の死を語る立場の人々が、どこまで親族などの身近な人々の視点から死を語る立場の人々の声をていねいに聴き、その声に適切に応答することをあきらめないこと。そのことではないかと思います。また、柳田さんが言いたかったのも、結局はこのことではないかとも思います。
だとすれば、それは「2.5人称」などではなくて、「2人称で語る人々と3人称で語る人々の対話」というべきものではないのかな・・・と、私などは思った次第です。

〈悲嘆〉と向き合い、ケアする社会をめざして: JR西日本福知山線事故遺族の手記とグリーフケア

2011冊目:岡田憲治『静かに「政治」の話を続けよう』

2014-10-07 22:52:18 | 本と雑誌
2011冊目はこの本。
岡田憲治『静かに「政治」を続けよう』(亜紀書房、2011年)

政治学者の岡田さんの本を読むのは、これで3冊目。
岡田さんの本は今のところ3冊とも、政治を語ることばのことを一貫して問題にしています。
要するに、政治について「おとな」の言葉づかいのできる人がいないこと。
たとえばヒステリックに誰かを非難したり、威勢がいいだけで中身がない言葉で政治を語ることや、そういう言葉づかいをしてしまう政治に対する知性のあり方を、岡田さんは問題にしているのではないか、と、この本や他の2冊を読んで思いました。

静かに「政治」の話を続けよう