今日は5月3日、憲法記念日です。また、今月20日は、子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)の批准の日です。
さて、最近、「人権教育」と「道徳教育」との関係を考える研究会が、私の身近なところで開催されたようです。「ようです」と書いたのは、詳しい内容などについてあまりよくわからないので、こういう書きかたになったのですが。
ただ、どういう思惑でこのような研究をはじめたのかわかりませんが、私の考えとしては、「両者は関連はどこかであるとしても、一応、別のものであるべきだ」と思っています。また、学校内外での子どもの「人権教育」は、少なくとも「日本国憲法や子どもの権利条約などに関する基礎的な理解」に向けての学習活動をベースにするべきであって、安易に「~を大事にする心を育てる」などの心情的な面での学習活動につなげてほしくない、と思っています。そして、できれば、現実の日本社会における子どもの諸課題に対する理解を深める作業、これと結びついた形での「人権教育」が、今は子ども以上におとなの側に必要なのではないか、と考えています。
古い本になりますが、先日、『うどん学校』(岩井好子編、盛書房、1977年)という本を読みました。この本は、1970年代に奈良県に夜間中学校を作ろうとした人々の手によって書かれたもので、当時の夜間中学校開設要求運動と、自主的に取り組んだ夜間中学校の実践記です。この本のなかには、当時、夜間中学開設を求める運動に取り組んだ人々が、憲法と教育基本法、児童憲章などの規定を手がかりにして、長年放置されたままであった未就学の人々の問題に取り組もうとしている一節がでてきます(p.17~18)。
少なくとも私としては、「人権教育」「人権学習」というのは、自分自身にとって身近な課題、あるいは生きていくうえで切実な課題について考える(=それは、「自分はこの社会のなかでどんな位置づけに立っているのか?」を問うこと、自分の立場の「社会的自覚」ということ)中で、自分自身の暮らしを問い直し、編みなおしていく切り口として使いこなせるレベルにまで、抽象的な文言で書かれた法的諸権利について学ぶことをつないでいく作業ではないか、と考えています。だから、上記のような古い夜間中学校開設要求運動などのほうが、私のイメージする「人権教育」「人権学習」のイメージに近いのです。
逆に、「自分自身と向き合う」こと自体を否定はしませんが、たとえばワークショップを開いたり、指示に従って自分の思ったことを書き込むワークブックをつくるとか、そういうことに重きを置いた「人権教育」「人権学習」については、「それがどのように、自分の立場の社会的な自覚につながるのか?」と思ってしまいます。自分を社会から切り離した形であっても、「自分自身と向き合うこと」はできますからね。
特に、文科省配布の『心のノート』で、子どもたちの自己理解を促すようなページの書き方は、社会と切り離された形で自分を見つめるような、そんな印象を受けてしまいます。『心のノート』は90年代後半以来の「道徳教育の強化」をめざす動きのなかででてきたものですが、「人権教育」「人権学習」がその動きに安易に接続されてしまうことに対しては、「それはやはり、ちがうだろう」と思ってしまいます。むしろ、少なくとも今は、そのような動きに対して、「自分はどんな立場に立っているのか?」を冷静に見つめる作業こそ、「人権教育」「人権学習」の重要な課題なのではないでしょうか。
というような次第で、あらためて憲法記念日の今日、もう一度日本国憲法や子どもの権利条約を読み直して、そこから今後の「人権教育」「人権学習」のあり方を検討することのほうが、今はやりの動きになじむことよりも大事なのではないか、と考えたのでした。
ちなみに、子どもたちに本当に「正義感」「悪を憎む心」や「友だち、仲間を大事にする心」、「目の前の課題に積極的にチャレンジしようとする心」などの大切さを伝えたいなら、つまらない「道徳」の授業を学校でするよりも(ましてや「道徳」の授業をつかって「人権」の話をするよりも)、プリキュアシリーズのアニメをおとなが子どもといっしょに見るほうが、よっぽどましなように思います。制作者の意図かどうかはわかりませんが、私の見たところ、あのプリキュアシリーズのアニメには、こうした子どもたちに「人として大事にしてほしいこと」へのメッセージが、いっぱい詰まっているように思いますので。
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