ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

リトアニアの国民投票の結果の行方は?

2012年10月15日 | 雑誌から

     「珊瑚花」 春先に咲くと思うのですが 今頃咲き始めました?     (12-10-4)

暑かったり、寒かったり、私の苦手な季節がやって来ました。明日まではどうに
かお天気は持つようですが、水曜日から崩れるようです。土曜日には同期会が
あるのですが、大雨にならない事を祈っています。


リトアニアが10月14日、新しい原発に賛成か否かの国民投票を行った。結果
として65%が反対、35%が賛成と言う結果のようです。リトアニアもわが国
と同様エネルギー資源を持たない国です。

電力の60%をロシアからの天然ガスによる火力発電に頼っています。その依
存体質から脱却する為に、2006年から原発を建設する計画を立ち上げ、今
年6月に国会が、日本と契約する事を承認しました。

この原発は「日立製作所の改良型沸騰水型軽水炉」だそうです。

リトアニアのクビリウス首相は上記の原発は「最高の品質が保証されている唯
一の原発だ」と安全性に信頼を置いているようです。

しかし、国民投票で「ノー」と出れば、今後どうなるのでしょうか?この計画は東
京電力福島第一原発事故後、初の日本メーカーによる原発新設計画だったそう
です。

クビリウス首相はまた、30年代までの原発稼動ゼロを模索する日本の議論を
注視しているとしつつ、ゼロ政策はあくまでも長期展望にすぎず、日立との契
約や自国の原発計画には影響を及ぼさない考えも示しておられました。

国民投票の結果に拘束力はないそうですが、2/3の反対となれば、スムーズ
にはいかないのではないでしょうか?

日本の技術に信頼をおいてくれたのに、とても残念に思います。

             ☆  明日お休みします


「 カポック」  ↑   6-20          ↓  8-23         ↑ 7-4       ↓   9-11
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五郎丸の生涯

2012年10月12日 | 読みました
     
                淡路夢舞台温室・軌跡の星の植物館の花たち





唱歌の学校で、嬉しいことが在りました。新しいお仲間が1人増えるようなんで
すよ。アルトですけれどね。説明はありませんでしたが、何処かのクラスから
変わってこられるようなのですが…。減る一方のお仲間が増えると言うことは
嬉しいことです。



          五郎丸の生涯     三浦明博

著者・三浦明博さんは2002年に「亡兆のモノクローム」という作品で、江
戸川乱歩賞を受賞された方です。

秋田犬「五郎丸」の一生の物語です。

仙台市の西のはずれに住む一人暮らしの老人が、納屋で秋田犬が死んでいる
のを見つける。何故こんな所で?と不思議に思うが、ペット斎場でお骨にする。
老人は納屋で首吊り自殺するつもりだったのです。この「犬の死」の始末をする
ことによって、この老人の運命が変わる。生きていくことになる。

秋田犬の生きてきた道を遡っていく。

雑木林の中で娘が秋田犬を見つける。どうにかして、家で飼いたいと思う。父
親と二人雑木林に行く。娘の前に熊が現れる。あわや!という時、秋田犬が娘
と熊の間に入り、娘を助けてくれる。秋田犬を連れて自宅に帰る。「ゴロー」と
名づける。

ある日、ゴローは忽然と姿を消す。いなくなったのは3月9日、比較的大きな
地震があった日だった。


「里親急募! ・良く仕付けられたおとなしい犬です。短期間4~5ヶ月」という
張り紙を見た青年(新城)が動物病院から、秋田犬をマンションに連れ帰る。彼
の会社は所謂ブラック企業だった。彼の下に、新人社員(葛西)が付く。成績優
秀である。彼は秋田犬が来てから、自分の運命が好転したと彼女(葛西)に語る。
成績優秀の彼女には裏手口があり、そのために、まもなく会社を辞める。新城は
飼い続けたかったが、マンションでの飼育は無理と約束の日に病院に秋田犬を
返しに行く。


数日後、次の飼い主が見つかったかどうか、病院に行くと、秋田犬はすでに次
の飼い主が引き取っていた。その飼い主と言うのが、元部下の彼女(葛西)で
ある。彼女は青年が、病院に秋田犬を返しに行く話を聞いていたのである。彼
女は急性心筋梗塞で死ぬ。秋田犬は傍らで寄り添うように座っている。秋田犬
は大型犬を飼いたいという人にもらわれていく。


矢作夫婦と息子翔太の所に秋田犬はいた。動物管理センターからもらってきた
のである。しかし暫くすると東京に転勤の話が来る。秋田犬を誰かに譲ろうと
しても大きい為に飼おうという人が現れない、マンションでは飼えない。思い余っ
た夫婦は、息子には飼い主が見つかったといって、森に捨てに行く。秋田犬は
自分の運命を知ったが如く森の中に去っていく。


次郎(大学生)のじっちゃんが秋田犬の子犬をもらってくる。五郎丸と名づけら
れる。五郎丸が女の子に怪我をさせるという事件が起きる。そんなこんなのうち
にじっちゃんが入院することになり、その間預かってもらう人を捜すことになる。
その預かり人が青年(新城)である。


話は初めに戻り老人が、首をつろうとしたとき、地震が起こり、体が大きく揺
さぶられ、失敗に終わる。この地震で多くの人がなくなった。大地震と大津波
から1週間がたった日、老人は定義山に向かった。自殺しそこなった自分は生
きた、まだ死ぬべきでない若い人や子供や、もっと生きたいと思った人がなく
なった、死者の冥福を自分が祈らなくては成らないと思った。そして生きた。

そこで、納屋で死んでいた秋田犬とそっくりな子犬を見つけて連れて帰ってく
る。それを知った近所の人に「あそこの家(老人の家)は、犬に縁があるのか
しらね」ともと居た人が、秋田犬のブリーダーだった事を教わる。その人は足
腰が弱って働けなくなって、ブリーダーをやめて息子の家に引き取られていっ
た。最後に生まれた中で一番強そうなオス犬に一郎、二郎と名をつけ、最後の
犬を五郎丸(5代目)となずけた。

秋田犬五郎丸は自分が生まれた土地や、森や風の匂い、母犬と兄弟たちの匂
い、そんなかすかな手がかりを頼りに、あの家の納屋に、長い旅の時間を追
えて帰ってきたのだろうか。死に場所として。

老人は死んだ犬五郎丸に似た子犬に「ろく」(6代目)と名づけ、共に生きていく。
というお話。


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淡路島を訪ねて

2012年10月11日 | 一寸そこまで


10月10日(水)町内会、「バス旅行研修会」で淡路島に行ってきました。暑いくら
いの良いお天気でした。同じご町内と言っても、年に一度のこんな機会にしか
お目に掛からない方もおられます。「あ~、お元気だったんだわ」とお元気なお
顔を見て、嬉しくなります。本当に良い親睦の機会だと思って、近年は参加させ
ていただいています。今回は43名というシートぎりぎりまでの参加者でした。

スムーズにバスが行き過ぎて、植物園が10時にしか開かないと言うので、予
定外に、明石海峡大橋の見える場所に寄り道をしました。そのとき撮ったのが、
初めの写真です。あまりにお天気が良すぎて、一寸霞んでいます。

     


  「ブルーアマリリス」 とても珍しい花だそうです 今日が咲いている最後位で とてもラッキーでした


私にとっては久しぶりの植物園です。2年ぶりぐらいでしょうか。とても花とは信
じられないような花(2段目の左は花とは思えません)があり、驚くやら、嬉しい
やらの一日でしたが、名目上の「菊」はまだ未だと言う感じで「シュウメイギク」
が盛りと言うくらいでした。



次にいったのが、はるか南下した場所でのお食事でした。「まあまあ、こんなも
のでしょう」と言う感じのお料理でした。暑いのに、鍋料理があって、43個のコン
ロが火をつけているのですから、やたら暑かったです。窓からは鳴門の渦潮
(ゆるい渦でした)を望むいい場所に在りました。



            ↓   外観                    ↑  右:正面玄関 


            ↑   いり口を入った 吹き抜けのロビーの天井の「龍」の絵     
        ↓   私の一番好きだった絵   (撮影禁止だったので パンフレットからの抜粋)


此処、「滝川記念美術館・玉青館」は私にとって一番の見所でした。とても不
便な所にあり、マイカーをやめた私にとっては個人で行くのに困難という場所
にありました。見学者は、この時間私達だけのようなもので、館の方に説明ま
でしていただき、理解度が深まった感じでした。


     

少々、旅の疲れも出てきてた所、疲れを吹っ飛ばす。面白い経験をしたのが、
この「吹き戻しの里」でした。初めに社長からの色々な「吹き戻し」の実演を
見せていただき、説明を聞きながら、大笑いをしました。

制作方法のビデオを見て、個々の製作の始まりです。ここ々で器用、不器用が
分かりますね。何はともあれ、楽しく一人6本の「吹き戻し」を製作しました。

名前は如何呼んでいたのか記憶にないのですが、もう少し太目のこの笛を吹い
て楽しんだ思い出はあります。童心に返って、皆吹いて楽しみました。笑い声
一杯の会場でした。

社長の説明が面白くて、自分もしてみたい、孫に買って帰ろうと、沢山の方が
「おみやげ」として面白い「吹き戻し」を買われたようです。我が家は、孫も
大きいですし、6本在れば、当分楽しめますので、私は買いませんでした。

予定時刻にずれること10分、無事立花にかえって来ました。


                         私の作った「吹き戻し」です


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ノーベル賞 頂き!

2012年10月09日 | 今日この頃



          「ルコウソウ」   こぼれ種1本でこんなに沢山咲いています   (12-9-30)
     

昨日今日とこの話題で持ちきりですね。ノーベル賞を村上春樹さんが取るので
はないかという噂は聞いていましたが、山中教授の医学・生理学賞のうわさは
聞いていなかったので驚きました。その上若いんですね。昔はノーベル賞とい
えば、おじいさんになってからと言う感じでしたよね。

若いからでしょうか、奥様とご一緒のときの写真は「僕はあなたに頼っていま
す!」って感じですね。保護者が一緒で「安心!」ってお顔。どんなに優秀な
人でも、社会的地位があっても、男性は家庭では受身かな? ほほえましいと
感じました。

又奥様が偉い、姉妹を、二人とも医学生に仕立て上げた。ご自分も医師として
働きながらです。その上、ご主人の海外留学には、わが身を捨てて(医師の仕
事を中断しても)、同行した。やっぱり、良い奥さんをもらわなな~、昔から言う
でしょう、「嫁をもらうなら、その母を見よ」って。反面教師と言うことも在るけれ
ど、まずは、娘は母親に似るんですよ。娘さん二人も、お母さんと同じ、見事
な家庭を築かれるのでしょう。

iPS細胞、開発途中で、実用には5年~10年先だそうですが、難病の人も、と
ても喜んでおられるそうですね。何しろ、自分の皮膚から新しい細胞を作るので
すから、人のをもらうときのような拒否反応がないそうですね。

その話のニュースを聞いていて、私は「その人の生き生きしている細胞の時に、
国民皆が、『細胞貯金』をしておき、必要になったときにいつでも使えると言う考
えは如何なんだろうな~」と思っていましたら、ニュースキャスターの木村太郎さ
んが、私が頭で考えていたと同じ事を話されたのです。心の内を読まれたようで
「いや~、世の中には顔の似た人が3人いる』って言うけれど、頭の中でも、同じ
考えを同時に持つ人も居るんだな~と驚きました。

それにしても、又「京大」ですね。如何してノーベル賞は「京大」出身者が多
いのでしょうね。「東大」も1人ぐらいはおられたような気もしますが、何故、
「京大」が圧倒的に多いのでしょうか?それなのに、受験では「東大」「京大」
の順番が崩れないのは何故でしょうか? 学生と研究室は違うのでしょうか?

        ☆  明日おやすみします






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まつりと屋台

2012年10月08日 | 一寸そこまで








10月7日(日)尼崎市民祭りに、何年ぶりかで行きました。市役所の周りであっ
たので、我家から、ゆっくり歩いて15分ぐらいです。思っていたより、大勢の人
出でした。屋台も沢山出ていました。以前私が行った頃は、このような本格的な
屋台は少なく、商品を地べたにシートを敷いた上で商売していたように思います。

ぶらぶら歩いて、人さまが屋台の食べ物をかって、おいしそうに食べているのを、
横目で見ながら「こんな所で買い喰いする気はないな~」と言う主人。小さい時
から胃腸が弱かったので、駄菓子屋のお菓子さえ買ってもらったことのない私は、
楽しい思い出もなく、それゆえに、欲しいとも思わないのです。こんな二人が来
たって、一円のお金を落とす出なく、招かれざる客と言う感じです。

「もう来ることないやろな~」と憎まれ口を叩きながら、野外劇場に進みました。
このA(大人)B(子供)を1ステージ見ただけで、「あ~暑い、帰ろ!」と里心で
す。何をしにいったのやら。

何故いった? 主人が温泉に行く時に、家から歩いていきます。その通り道に
市役所があるわけです。そこで、屋台の組み立てが行われていたそうです。
「あれ何やろ?」「明日、市民まつりがある」「行きたい」と言う会話があって、行
きました。

私は「市民まつり」が始まった頃に行ったことがあります。近年は、まったく行って
おりません。ただ、毎年行く人の話では「お餅と甲南漬けが安くておいしい、でも
長~く並ばなあかん」聞きしに勝る長蛇の列でしたから、欲しい気持ちより、諦め
の気持ちが勝り、通過しました。

年寄りが「何でもかんでも首を突っ込むものではない」と言う事を知らされた、
勉強をした一日でした。

   
          ↑  尼信の法被は尼子騒兵衛さんの絵   ↓  子供チームの演技

    「南京たますだれ」   上:五輪マーク  下左はハート  右はミッキーマウス だそうです




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おおかみこどもの雨と雪

2012年10月05日 | 映画の話
     

今日は久しぶりに映画に行ってきました。「おおかみこどもの雨と雪」です。
今朝の新聞の母親が姉妹を殺したのは「後に残すとふびん。愛ゆえに殺した」
と言うのを見たから、この映画も「母と子供の物語だと知っていたからです。

アニメですが親子の愛をどのように描いているのか知りたいと思ったからです。

9歳と6歳の姉妹の命を奪った、母親は、初めは自分だけ自殺しようと思って、
姉妹に宛てた遺書のようなものを書いたが、くしゃくしゃに丸めてチリ箱に捨
ててあったと言う。私にすれば、是は身の保安の為の疑似行為のような気がし
ます。

「ふびん」だとか「愛ゆえに」とかで、たとえ母親とは言え、人間の命を奪う権利
なんてない。家庭事情が分からないのですが、一般的に言っても、いとしけれ
ば、身を粉にして働いて、子を育てるのが親の務めだと思うし、もし貧しい生活
に甘んじるものであっても、子供もそれに耐えるし、親の一生懸命の姿を見れ
ば、決して恨むことはないと思う。

先日も、うそをついたと言って「しつけ」と、ゴルフの練習用のクラブで、30分
間も叩いて死亡させた母親がいた。あろうことか、祖母まで加わったと言う。

この話を読んで、この母も、小さいとき、この祖母に虐待された経験を持つの
ではないかと思った。親にいじめられた子は、自分が親になったとき、同じ事
を繰り返すことがあると、聞いたことがある。

近年、親が子を子が親を手に掛けると言う事件が多発している。日本だけの
現象だろうか? 基本は「教育」しかないという。私は「教育勅語」を思い出し
た。あの精神が何故いけないのか私には理解できない。


映画に話を戻すと、母親はおおかみ(普段は人間の身体をしている)との間に
雪の降る日の「雪」と言う女の子と、雨の降る日に「雨」と言う男の子を生む。
父親のおおかみは早死にして母親が一人で育てる。

子供たちは、大きくなると、気持ちの高ぶりによって、おおかみの姿に変身す
る。この子らの生きやすいようにと都会を離れ、山奥の過疎地に暮らしの場を
移す。

幼いころは、姉の方がおてんばで、おおかみに身を変えることが多かった。弟
の方はその反対で、母親に「大丈夫よ」と言われて生きていた。

10代になると、女の子は母親の言いつけもあって、おとなしくなるが、10歳に
なったとき弟の方は学校に行かず、山の中に居たおおかみに、おおかみとして
の生き方を仕込まれれ、たくましくなっていく。

先生のおおかみが足に怪我をして「まもなく死ぬだろう。自分が後を継がなけ
ればならに」と言う。母は「あなたはまだ10歳こどもだ」と言うが、おおかみと
しては立派な大人である。

男の子はおおかみの姿になり、母の元を去る、女の子は寄宿生の中学に入り、
是も母の元を去る。母は一人もとの家に残る、時々聞こえるおおかみの遠吠
えを聞いて、男の子の無事を知る。

母親は寂しくとも、悲しくとも、巣立つ子供を見守るものなんです。その母性を
奪ってしまう、今の世の中はどうなっているのでしょうか? まず考えられるの
は「自己中心」、何が何でも自分を中心にしか全てを考えられない。この考えは
自分も不幸、傍の人間も不幸にする。やっぱり、戦後教育の間違いが積み重な
って不幸な人間を作っているのだろうか? 悲しい世の中になったものです。



     「ベコニア・ドラゴン」   暑さに負けず 吊り鉢で盛んに咲いている    (12-9-25)
 
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飛んで! オスプレイ!

2012年10月04日 | 気にかかる

     「ネリネ」 他の花が覆いかぶさっていて それを取り除き日に当てるのが遅れて 
                数輪しか咲かなかった (12-9-30)



図書館まで歩きました。15日から、図書館の整理週間で、今日借りると、4週
間、何時もの2倍の期間借りられるのです。

予約の本が2冊来ているので、後は「久坂部 羊  神の手」の上下を借りるつ
もりでした。先日調べた時に本棚にあると出ましたので、長いお休みの日に借
りようと思っていました。ところが生憎と、借り出されていて、手に入りませんで
した。

仕方がないので、長い貸付期間だしと、久しぶりに本棚の前をうろうろしまし
た。今まで読んで、スキだな~と思った作家のものをと考えたのですが、中々
意中の本は貸し出されていて、ありません。端から端まで、もう一度巡ること
となりました。長編上下本と加えてい1冊合計5冊をリュックに詰めて、うんうん
言いながら帰って来ました。

読む本が、手元に沢山あって、嬉しい気持ちです。


尖閣諸島沖で中国船が何日もウロウロしていますね。今日は台湾の船も加わっ
た様ですが…。いま日本は海上保安部の船が監視しているのでしょう? 自衛
隊の出番ではないかしらね~。テレビを見ながらイライラしますよ。

オスプレイ、練習を始めていますか? アレだけ「オスプレイ沖縄常駐反対」
と騒いでいたのに、あの人たちはどうしていますか? あの人たちは如何して
御まんまを食べているのかしら?と心配していたのですが、スト参加の日給で
食べていますか? 報道がないとかえって心配です。

オスプレイは練習飛行で一度は尖閣諸島まで飛ぶのでしょうか? 一度、中国
船や台湾の船の頭上を旋回してくれないでしょうか? 「鷹に睨まれた小鳥の
ように」嫌がらせが減るのではないかと思うのですが。
                                      (1950回)


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近松公園の川柳で~す

2012年10月03日 | 今日この頃

        「黄花コスモス」     西宮・香枦園の町角で     (12-9-21)




「今日は500円やで~」と言うので、久しぶりに温泉に行きました。私はいつも
500円の安い割引のときばかり行くので、人が多くて嫌なのですが、今日は
どういうわけか人が少なく、ゆっくりと過ごせました。


     

近松公園の川柳は、中断していました。この度は又復活したようで嬉しいです。
ただ、以前より数がぐ~んと少ないです。半分くらいでしょうか? 「川柳は」
上の写真のように、公園の中の木にくくられています。


     百歳を きっと生き抜く 腹積もり

凄い馬力ですね。私だって、何処も悪くならないなら100でも200でも生
きたいですよ。こんなに、全てが進歩し変化してゆく世界に何時までも留まり
たい!


     薬より 効き目あります 老いの恋

「老いらくの恋」とは何歳からをさすのでしょうか? 私たちはその期間さえ
過ぎているようです。今となっては、「恋の苦しみ」なんっていらないや!
 平凡に、静かに生きたいわ。


     母に似て きっと長生き する貴方

「母」って勿論「義母」のことでしょう。親が長生きした子供は、自分もきっと
「親の年までは生きる」と思うらしいですよ。それまでに死ぬなんて考えな
いようですよ。主人も、早、「義母」を4歳も追い越しましたし、「わたし、今年
が死んだ年(義母の)と同い年やから、何となく不安」と言っていた義姉は
「義母」より、10歳も年上になりました。


     還付金 戻って今夜 廻る鮨
 

一旦手から離れたお金です。それが戻ってきたので、回転寿司にいかれたので
すね。今日は、家計にひびかないとおいしく喉を通ったでしょうね。


     鰻から 秋刀魚に続く 主婦泣かせ

「鰻」は高止りですが秋刀魚は「生」を買った時1匹200円でしたが、冷凍
ものは100円ですから、きっと「生」の事を言ってるのでしょうね。しかし、
何でも食べ物はジリジリと値上がりしていると感じます。

例えば、洗剤なんかでも箱は元の大きさですが、蓋を開ければ、空間が多いで
す。値が上げられないから、量を減らしているのですね。

老若を問わず、主婦はやり繰りが大変です。「年よりは金持ちだ、それを使わ
ない」と言われますが、私達だって、老後の為と辛抱して貯めた金です、楽し
みに使いたいですよ。でも、死への通過点「病」の費用の事を考えると「ゼロ」
に近づけることが出来ないんです。解ってくださいね!



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誰も語れなかった沖縄の真実

2012年10月02日 | 読みました

               「桔梗」   尼崎・近松公園     (12-9-23)


10月になって、2日が過ぎました。日めくりカレンダーもやせ細って来ました。
疾風のように去っていく1年、終着駅がどんどん近づいてくるな~と感じる秋、
冬がやってきます。太陽のガンガン照りつける夏にはあまり考えない気持ちで
すが、秋、冬は、人生の黄昏を思い出す日々の到来です。


     誰も語れなかった沖縄の真実     恵 隆之介

この本を読んで、今までもやもやしていた「沖縄」に対する疑惑が、す~っと
消えていきました。「やっぱりな~!」「如何して沖縄ばかりが被害者のよう
に言うの?」「本土だって、戦火は受けているし、大勢の犠牲者が居た、なの
に、何故?」その気持ちが間違いではなかった、と理解できたが、政府が途轍
もないお金を沖縄に渡すのは何故?という疑問がわきました。その理由もかか
れてはいますが、「そうですか」とは納得できません。

沖縄県知事は如何して、あんなに威張っているのか? 一国の支配者の様に、
政府の言うことにことごとく反対している。それが腹立たしくもあり不満だった。
沖縄では「中国帰化人」であることはエリートだそうで、前知事も今の中井真知
事も「蔡家」の出である事を選挙のとき誇示していたらしい。沖縄では、琉球王
国時代に沖縄に移住してきた中国帰化人子孫を一段高く評価する因襲がある
とか。

戦後、米軍基地が沖縄に建設されて以後、基地交付金を主とする種々の補助
金、米軍基地からの土地借地料、基地従業員としての雇用が発生し又沖縄振
興のネックであった亜熱帯特有の感染症も米軍によって撲滅された。

宜野湾市は産業もなく、市の収入源は、2448人(689名のハンセンテレカ地
主を除く)の地権者に防衛省から毎年支払われる66億4千7百万円(一人当り
360万円受給、平成20年度実績)軍用地は資産デフレが続く中でも着実に増
額するためいまは投機の対象になっている。

沖縄では地元マスコミは米軍軍人が起こす事故は針小棒大に報道されるが、米
国軍人が県民に臓器提供しようが、人命救助しようが、一切報道しない。戦後、
難病を患って地元医師から引導を渡された3千人以上の住民が、米軍軍人のカ
ンパと米軍の航空機で米本国へわたり、治療を受け全快している。わが国で臓
器移植法が制定されて以降、日本国民に最初に臓器を提供したのも、沖縄に駐
留する米軍人の家族であり、臓器提供はすでに5件を数えている。

島国根性のあらゆる欠点は琉球において見出される。排外の狭い考えから、い
かに琉球のひがんだ想いを内地に寄せているか、しかも、口を開けば救済、救
済と叫び、一を得て二を望み、二を得て三を望む。自ら額に汗して勤める事を
嫌い、タダタダ外部よりの救いの手を待とうとする。かような考えの改まらぬ限り、
おそらくは政府の救済も水のあわとなろう。

沖縄県が隠している史実にハンセン病がある。ハンセン病療養施設建設を明治
42年から試みたが県会の反対や建設予定地域住民の猛反対で断念したので、
患者は鹿児島県に船で移送した。

沖縄ではハンセン病は天刑(てんけい)病または遺伝病とされ、罹患すると一
族郎党から追放されたのみか、たとえ死亡しても祟りが在るとして、一族の墓
にも入れてもらえなかった。患者たちは海岸沿いの洞窟や、ちり捨て場付近に
小屋を作って身を寄せていた。しかし付近住民に襲撃され、焼き払われること
が多々あった。

私設療養所は昭和12年貞明皇后、三井報恩会、キリスト教会からの浄財によ
り、本島北部の離島、屋我地島(やがじま)に設立された。

昭和30年、本島北部では各地で米軍基地誘致運動が起こっていた。普天間飛
行場建設予定地として取りざたされている辺野古地区(当時は久志村、現在は
名護市)と金武村がその代表である。村議全員の署名を持って、三度にわたり
米軍に陳情を繰り返し、ようやく採択されたのが「キャンプ・シュワブ」「キャンプ・
ハンセン」である。

昭和34年「キャンプ・シュワブ」が完成したとき、村では祝いの祭りが行われ、村
長は「第二のゴザ市をめざす」と発言し、村民の喝采を受けた。しかし地元紙を
初め全国紙は、伊佐浜の土地闘争は報道したものの、久志、金武村に関する報
道は一切行わなかった。

名護市が所有する土地の一部を返還すると防衛庁が発表した所、市長は「返還
反対」を表明した。継続使用を防衛省に懇請した。理由は「地料が市内行政区
の運営資金に使われていて、返還されれば資金不足に陥る」この土地は年間2
億円が防衛省から名護市に支払われている。平成7年にも同じことが繰り返さ
れた。軍用地を名護市の要請に応じて返還と発表した所、市議会が突然、返還
反対決議を行って、防衛庁は借料を5千万円を上乗せした上に継続借り上げを
行ったが、用地は一切使用されていない。結局、返還要求は賃料値上げが目的
であったと推測される。

以上は、私の疑問に思っていたことのほんの一部を切り出しました。

私は何十年か前、北海道アイヌと沖縄、琉球の舞踊会を見に行ったことがある。
その時、北海道の貧しい衣装と、琉球の色鮮やかな衣装の違いを見て、不覚に
も、北海道は貧しく、沖縄は富んでいると錯覚してしまった。沖縄がきらびやかに
見えたのは、琉球王朝の、ほんの一部だけで、島民は貧しい生活を強いられて
いたらしい。「さとうきび」で得たお金も、上流階級のみが受け、島民の手には渡
らなかったらしい。

名前は忘れたが、当時沖縄を訪れた外人が「私は世界中でメキシコ土人を除け
ばこんな貧しい生活(沖縄の)は見たことがない」と言ったそうです。それほど貧
しい生活だったのです。

私はやはり考えていただきたい「沖縄だけが…」と言わないでほしい。大戦で
は本州の私達も痛手を受け、人生が変わった。でも補償を受けることはなく、
焼け野原の中を黙って耐えてきたのです。勿論、戦火にまみれることもなく、
財産も失わなかった田舎も多いです。でも全て運命と諦め、私達の親の世代は
一生懸命生きてきたのです。そこの所を解ってほしいのです。

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一難去って又一難?

2012年10月01日 | 今日この頃

       「ダリア」   秋の花は色濃くて綺麗です     (12-10-1)

     今年は植え替えたからでしょうか 沢山蕾をつけました 3~40本ありそうです


台風17号、関西直撃か?と心穏やかではない放送に振り回されましたが、結
果的にあまり被害はなかったようです。ただ17号はスピードが速くて、関西
に夜の予定が、午後3時ごろになったのは助かりました。同じ強さでも夜は怖
さが身に滲みます。

ホッとしているのに、お天気の予報士の人が「19,20号の台風が生まれる
可能性があります。油断大敵です」って言うのです。又心がざわついています。

昔は窓も扉もサッシではなかったので、「台風が来る」と言えば窓や扉に木材
でバッテン状にくぎで打ちつけたものでした。

家の近所に「生長の家」と言う道場を建てているときでした。ものすごい音が
して、雷が落ちたのかと思ったのです。嵐が去って、窓を開けますと、数時間
前まで在った家がないのです。丁度瓦を葺いただけだったかしら、台風の風
が吹き上げて、柱もろともペッシャンコになったのです。恐ろしかったですよ。
ベリベリ、ドスンですからね。


オスプレイが台風で1日遅れで、沖縄に半分の6機が移動したそうですね。そ
れにしても、アレだけ大騒ぎした割に、今日の話題にならないのは、どういう
ことでしょうか?

夕刊の一面は「オスプレ」かな? と思っていたのですが、違いました。小さな
記事だけでした。日本人って、飽きっぽいと言うのはこういう事を言うのでしょ
うか? 付和雷同しただけで、本当に反対する人は少ないってことでしょうか?

台風と言う巨大な自然現象に気をとられてしまったからでしょうか? 

それとも新内閣に心を奪われた? なんで又「田中真紀子」さんなん? 政局も
「一難去って、又一難」にならなければ良いけど…。


是は夫婦ですか? 親子ですか? おなじところに3匹もいるのって、始めてみました(12-10-1)

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