「カンパニューラー」 尼崎・立花の町角で (12-5-20)
67年前、戦争が終結した日ですね。いつも玉音放送が流れますが、今日はま
だ耳にしておりません。それに、以前はガーガーと言う雑音で聞きとりにくかっ
た放送が、ドラマなどに出てきますと、はっきりと聞こえるようになっているのに、
お気づきですか。技術の進歩で、雑音を消したのだろうかと思っています。
その日、私は小学4年生で集団疎開で加古川にいました。小学3年生の2学期
から加古川に来ましたから、まもなく1年と言うときでした。「修養道場」とかで、
硬い畳だったのを覚えています。村から離れた、山中に在りました。周りは林
になっていました。
道場には「ラジオ」はなく、ささき先生が村の役場か、学校に行かれて、玉音
放送を聴いてこられて、私たちは佐々木先生から「戦争が終わった」と聞かさ
れたようです。はっきりと何も覚えていないのです。「これで、家に帰れる!」
と思ったのでしょうが、そんな記憶も在りません。ボーっとした子供だったの
でしょうね、私は。
終戦から2ヶ月半ほど過ぎた11月神戸に帰って来ました。私のように家を焼
け出された子どももいましたから、親の所在を捜すのに時間が掛かったのでし
ょうか?中々帰れないな~と思った記憶はあります。
昭和20年3月17日、神戸の大空襲で家が焼けたと言う話で、前回の同期会
で思わぬ話を聞きました。彼女は元町5丁目、私は元町4丁目で、幼稚園、小
学校、疎開先から帰った小学校も、そして中学も、偶然同じでした。だから、
彼女の家も焼け出されたと、つい2年前まで思っていたのです。
ところが、何の話から、そうなったのか忘れましたが、彼女がこういいました。
「私は元町で焼け出されたのではないのよ。父が(軍人の将校さん)『今度は
元町に焼夷弾を落とされるらしい』と聞いて、すぐ平野(母方の親の家)に疎
開したのよ。そしてまもなく元町に空襲があったのよ。だから私たちは焼け出
されていないのよ」
私はそれを聞いた時、驚くと言うより、「やっぱりね~」と言う冷静且つ沈ん
だ気持ちになりました。やっぱり軍関係の人は良い目をしているという話は本
当だったんだ、と言う思いでした。お父様はなくなりましたが、家・財産を失
わなかった分、お母さまも彼女も苦労はなかったのです。戦争で財産をなくさ
なければ、母も苦労をしなかったのに、そして私も、何不自由なく暮らせたの
にと、帰らぬ過去をちょぴり恨めしく思いました。
終戦記念日には、明るい思い出もありますよ。21年前の8月15日の朝日を
富士山頂で拝みました。つい10年ぐらい前に登ったと思っていましたのに、
早21年も経っていたんです。主人62歳、私55歳の夏でした。今思えば、
「50,60は洟垂れ小僧」と言う言葉が本当だったな~と思います。
76回迎えた夏も、その年によって、色々あったわけです。次男を9月に出産
した私は、大きなお腹を抱えた8月、無事に生まれてきて! と祈った8月も
あったわけです。後、幾度8月が迎えられるか分かりませんが、どうか平凡な
夏であってと祈ります。