サンケイにプロスキーヤーの三浦雄一郎さんが、東日本大震災で被災した、
宮城県・塩釜市の親子34人と富士登山に挑戦し、無事登頂、ご来光を拝む
ことが出来たと、上の写真が出ていました。
そのうちの一人が軽い高山病に掛かったが、点滴を打ちながらも、皆と一緒
に登頂に成功したようです。私も登山途中から高山病に罹った経験から、良
く頑張ったな~と思います。
私も途中の1泊の夕餉は胸がむかついて、夕餉のカレーは口に出来ずに寝
てしまいましました。熟睡は出来ず、目覚めるたびに「登れるだろうか?」と
心配しました。心臓が指先に移動した如く、指先で「ドクドク」と血流を感じる
のです。こんなに早く脈打っては、「あ~しんど、もうやめた」と心臓が停止す
るのではないかと恐れていました。
翌朝は、むかつきだけは治まっていたようなので、「ご飯を食べないと、体力
が持たなくて、登山できないと思い、おにぎりを無理に喉に押し込みました。
山の朝は寒かったです、山小屋の主人が小屋の外に出て、日の出を待つ私
達の為に、1斗缶に火をたいてくれたので、それを囲みながら、日の出を待ち
ました。
日の出は、自然に合掌してしまうぐらい、厳かな感じでした。富士山から登る
朝日を拝むのは当たり前のことと思っていましたが、1度目で日の出を拝める
ことは珍しいと後で聞きました。即ち折角、富士登山しても、日の出を拝めな
い人が多いそうです。
さて、私達(私達夫婦と長男)が登ったのはいつだったか? と調べてみまし
たら、なんとなんと1991年といいますから、20年もたっていました。
1991年8月15日の日の出を、私達は富士山で拝んだわけです。
私は心臓病が治ったばかりの主人の為に「携帯用の酸素」を持っていったの
ですが、それを吸いつつ登ったのは主人ではなく私でした。
主人と長男は「お鉢めぐり」をしましたが、私は休んで待っていました。
これは頂上の郵便局から、記念の為に、自分に出した葉書です。「一生に一
度でいい」と書いていますが、もし今、自分に体力があれば、もう一度登り
たい気持ちです。
息子はこのとき以来、何度と無く登っております。主人は62歳、私は55歳の
夏でした。
思い出していますと、富士登山、その後に2年かけての四国歩き遍路、1ヶ月
掛けてのニュー・ジーランド・ドライブ旅行とあまり人様のしない事をしているな
~と思いました。その時の年齢だから出来たこととも思います。
これからの年齢で、何が出来るのだろうか? その年なりに出来ることは探せ
ばあるはずですよね~。宝物探しをするようで、何となく楽しみな気もして来
ました。
下の写真は富士山の石なんです。色は2色あります。噴火の時に流れ出た溶
岩なんでしょうね。穴がブツブツ開いていて、軽石のように軽いです。富士山は
「休火山」ですから、何時又噴火するか知れないのですよね。世界に一つしか
ない端麗な富士山。何時までもこの姿を保ってほしいです。「死火山」となら
ないのは、今でも地下深くのマグマの蠢きが学者さんには感じられるのでしょ
うね。