西宮戎神社の菊展
年賀状を買ってきました。先日作った賀状を見てみました。何だか気に入らないのです。直してみたのですがまだ気に入らない。やり直す事に決めました。
作家吉川潮さんは言う「育ち」は愛情の質で決まる
育ちの良い悪いは何を持って判断するのか。家柄でしょうか?いや良家の子女といわれる者にも、どら息子、バカ娘は大勢居ます。・・・中略・・・若者が幼年期にどれだけ質の良い愛情を受けて慈しみ育てられたかによって決まると考えています。貧富の差は関係ありません。
たとえ事情があって父親か母親の片方の居ない家庭でも、代わりに愛情を注いでくれる祖父母、親戚の方々、隣人などに囲まれていれば充分です。ここで肝心なのは愛情の量ではなくて質です。猫かわいがりするだけではなく、厳しいしつけをするのも愛情で、質の良い愛情を注がれた子は必ず育ちの良い若者になる。
そういえば昔は近所の人も他所の子教える事があった。私が一年生になった頃だと思う。お向かいにあさこちゃんと言う子が居て仲良しだった。ある日あさこちゃんのおばさんが私に言った「XXちゃん、自分のことを『うち』と言わない方が良いよ。『うち』は『お家』の事でしょう、だから女の子は自分の事は『私』と言った方が良いのよ」
おばさんはあさこちゃんの居ない時に私に注意した。だから私の心を傷つけなかった。でもやはり恐いおばさんだと思った。私と遊んでいる内にあさこちゃんが『私』と言わなくなって、私の言うように『うち』と言い始めたのかも知れない。
おばさんは困って私に注意したのかもしれない。
私は今でもはっきり覚えている、学校に行こうとあさこちゃんを誘いに行った時で、おばさんは机に雑巾掛けをしていた(法律事務所で机が何台か並んでいた)縞の着物の上にすっぽりと真白いエプロンを掛けていた。まん丸い顔にまんまるいメガネを掛けて、髪は後ろで束ね首筋で小さなシニヨンをピンで留めていた。
前にも言ったように想い出に声は無いが言葉もその場面も覚えている。帰って母に言いつけはしなかったと思う。母は『うち』といっても気にしなかったから。それから私はおばさんの言う事が良い事と判断したのだろう、何時の頃からか『私』と言うようになっていた。今では有難いと思っているが、優しく諭してくれたのであるが、恐いおばさんだっと思っていた。
あさこちゃんには一回りは違う大学生のお兄さんがいた。お兄さんは富士山で大きな木に落雷があり、そばに居て感電死したと聞いた。後日私が富士山に登った時、この事を思い出したが、富士山に高い木は無かった。きっと麓だったのだろう。
集団疎開から帰った時「あさこちゃんが死んだ」と聞いた。回虫が喉に詰まって窒息死だった。苦しかっただろうな~と思った。終戦後は子どもは皆回虫をお腹に持っていた。学校で毎月「虫下し」を飲まされていた。卒園写真にあさこちゃんはちょっぴりお澄まししています。
もう一人親戚のおばあさんにも怒られた。おじいちゃんに連れられて遊びに行った時のことだ。何かを溢した時だ。濡れた座布団を片付け乍叱られたその情景もはっきりと覚えている。この人も恐いおばあさんだと思っていた。母は忙しく、一人娘で祖父に我儘一杯を許されていた私をおじいちゃんの目の前で叱り導いてくれる人が居たというわけだ。成人してから会ったこの人は本当はとても優しい人だった。
この人達が居なければ、我儘一杯に育てられた私は今よりず~っと育ちの悪い子だったのだろう。この年になっても「言葉使い」や「行儀」を教えてくださった事を有難いと思うことがある。
年賀状を買ってきました。先日作った賀状を見てみました。何だか気に入らないのです。直してみたのですがまだ気に入らない。やり直す事に決めました。
作家吉川潮さんは言う「育ち」は愛情の質で決まる
育ちの良い悪いは何を持って判断するのか。家柄でしょうか?いや良家の子女といわれる者にも、どら息子、バカ娘は大勢居ます。・・・中略・・・若者が幼年期にどれだけ質の良い愛情を受けて慈しみ育てられたかによって決まると考えています。貧富の差は関係ありません。
たとえ事情があって父親か母親の片方の居ない家庭でも、代わりに愛情を注いでくれる祖父母、親戚の方々、隣人などに囲まれていれば充分です。ここで肝心なのは愛情の量ではなくて質です。猫かわいがりするだけではなく、厳しいしつけをするのも愛情で、質の良い愛情を注がれた子は必ず育ちの良い若者になる。
そういえば昔は近所の人も他所の子教える事があった。私が一年生になった頃だと思う。お向かいにあさこちゃんと言う子が居て仲良しだった。ある日あさこちゃんのおばさんが私に言った「XXちゃん、自分のことを『うち』と言わない方が良いよ。『うち』は『お家』の事でしょう、だから女の子は自分の事は『私』と言った方が良いのよ」
おばさんはあさこちゃんの居ない時に私に注意した。だから私の心を傷つけなかった。でもやはり恐いおばさんだと思った。私と遊んでいる内にあさこちゃんが『私』と言わなくなって、私の言うように『うち』と言い始めたのかも知れない。
おばさんは困って私に注意したのかもしれない。
私は今でもはっきり覚えている、学校に行こうとあさこちゃんを誘いに行った時で、おばさんは机に雑巾掛けをしていた(法律事務所で机が何台か並んでいた)縞の着物の上にすっぽりと真白いエプロンを掛けていた。まん丸い顔にまんまるいメガネを掛けて、髪は後ろで束ね首筋で小さなシニヨンをピンで留めていた。
前にも言ったように想い出に声は無いが言葉もその場面も覚えている。帰って母に言いつけはしなかったと思う。母は『うち』といっても気にしなかったから。それから私はおばさんの言う事が良い事と判断したのだろう、何時の頃からか『私』と言うようになっていた。今では有難いと思っているが、優しく諭してくれたのであるが、恐いおばさんだっと思っていた。
あさこちゃんには一回りは違う大学生のお兄さんがいた。お兄さんは富士山で大きな木に落雷があり、そばに居て感電死したと聞いた。後日私が富士山に登った時、この事を思い出したが、富士山に高い木は無かった。きっと麓だったのだろう。
集団疎開から帰った時「あさこちゃんが死んだ」と聞いた。回虫が喉に詰まって窒息死だった。苦しかっただろうな~と思った。終戦後は子どもは皆回虫をお腹に持っていた。学校で毎月「虫下し」を飲まされていた。卒園写真にあさこちゃんはちょっぴりお澄まししています。
もう一人親戚のおばあさんにも怒られた。おじいちゃんに連れられて遊びに行った時のことだ。何かを溢した時だ。濡れた座布団を片付け乍叱られたその情景もはっきりと覚えている。この人も恐いおばあさんだと思っていた。母は忙しく、一人娘で祖父に我儘一杯を許されていた私をおじいちゃんの目の前で叱り導いてくれる人が居たというわけだ。成人してから会ったこの人は本当はとても優しい人だった。
この人達が居なければ、我儘一杯に育てられた私は今よりず~っと育ちの悪い子だったのだろう。この年になっても「言葉使い」や「行儀」を教えてくださった事を有難いと思うことがある。
孫が可哀そう。
人には色々な事情があり、その経験をプラスにするかしないかで後の人生が決まってくると思います。貴女は今娘さんやお孫さんに囲まれた生活をしておられます。とても幸せな羨ましい事です。貴女の生き方がプラスと出ている印だと思います。「終わりよければ全て良し」