ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

花の忠臣蔵

2016年07月19日 | 読みました

              「西洋オダマキ」     今年も沢山咲きました








「忠臣蔵」私は大好きでした。映画がくれば、必ず見に行きました。
「忠臣蔵」を知ったのは、祖父の影響です。忙しい母に代わって、私を
寝かしつける時、お話をしてくれるのです。「童話」ではないのです。
祖父が「講釈」で聞いてきて覚えている話、「八幡の大蛇・岩見重太郎」
「安珍清姫」「忠臣蔵」等々です。私はとても好きでしたよ。

小学1年生の時、父兄参観(参観日の事を昔は、こう言いましたよ)に
先生が「何かお話のできる人?」といわれると、私が「ハイ」と手を上げ
て、教壇に立ったそうです。話し始めたのが「安珍が清姫に惚れてな~
…」祖父の語り口をそのままに話したそうです。母は恥ずかしくて真っ
赤になったそうです。仕方ありませんよね。本当の言葉の意味なんて
知らないのですから。7つや8つの子が言葉を変えることなんて出来
ないことです。

だから私は戦前から「忠臣蔵」の話は知っていたのです。でもね、戦争
に負けた日本が「仇討ち」する事を恐れて、アメリカは「忠臣蔵」をどん
な形でも話すことを禁止しました。何年後だったでしょうか、其の禁止
令が取れた時、「映画」で忠臣蔵の色んな場面が映画化されて、私は
見に行きました。

そういえば、この頃「忠臣蔵」は年末にする歌舞伎ぐらいでしょうか、
あまり題材になっていないようですね。

討ち入りの吉良邸の茶会の日を聞きだしたのは、大高源吾だったそう
です。私は忘れましたが、違う名だったように思いました。

あの白黒の装束は火事場装束だそうですね。人目を晦ます目的もあ
ったのでしょうか?

吉良邸の死者は16人、これは 赤穂方の非情なほど徹底した戦場合
理主義の所産だそうです。ものの弾みでは仕方がないが、「抵抗する
ものは殺す、戦意を示さぬものは逃がす」という事を徹底的に行ったよ
うです。ちなみに、赤穂方は、一人の死者も出しませんでした。

当時、幕府はこの事件を、芝居等で実演する事を禁じて、大阪の竹座
で人形浄瑠璃で「仮名手本忠臣蔵」が初演され、2年後の歌舞伎が上
演された。初めて上演されたのは40年も過ぎてからだという。

終戦後初めて禁止されたと思っていたのですが、400年前にあったと
は初めてしりました。「本を読む」ということを益々好きになりました。


花の忠臣蔵    野口武彦



パソコンで下記の説明を見つけました転記させていただきました。


(2820回)
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