「十二単」 太谷美術館 (13-4-23)
久しぶりに、午後から、太陽が顔を覗かせ、居座りました。この変なお天気は
やっと終わったのでしょうか? 急に寒くなりました。図書館に行ったのですが、
汗をかきませんでした。湯船にお湯を張りまして、何ヶ月ぶりかで、体を、温め、
リラックスできました。
海賊とよばれた男 百田 尚樹
待ちに待った本でした。そして、アッとゆうまに読みきれた本でした。書評にも
あるように、なんど、涙ぐんだか知れません。主人公の、人へのやさしさと、頑
張りに対してです。
主人公・国岡鐵造の終戦の日から物語りは始まります。その時、国岡商店には
1千名の社員がいたが、1人も首にすることはなかったそうです。また、応召中
の社員の留守宅には給料を送り続けたそうです。
石油会社が本業の国岡商店ですが、売る油がなく、社員の生活のために、何で
もやった、その主な仕事は「ラジオ修理」だったそうです。
国岡商店には創業以来5つの社是があった「社員は家族」「非上場」「出勤簿は
不要」「定年制度は不要」「労働組合は不要」戦前においても、これらの制度は、
多くの他の経営者から「非常識」と笑われたものだったが、「家族の中に規則が
あるほうがおかしい」と信念を貫きとおした。
1859年にアメリカでドレイク大佐という男が、ペンシルバニア洲で油田を掘り当
てた、それまでは鯨油を使用していた。ペリーが来航して通称条約を要求したの
も、捕鯨船の補給基地が欲しかったから。
「油を扱う商人になりたい。中間搾取のない商いがしたい」という、日田という人
が鐡造を見込んで、会社を興すとき、大金をくれた(貸すのではない)人がいた。
持ち家を売って資金を作ってくれた。その資金も3年間で使い果たしてしまった。
「国岡商店は廃業します」と日田に誤ると、「3年であかんかったら5年やってみ
5年であかんかったら、一緒に乞食しようや」と励ましてくれた。鐡造は日田が亡
くなるまで、恩を返し続けた。
社員も、鐡造の心に答えて、よく働いた。商店はどんどん成長していくが、そ
れをねたも同業者の嫌がらせ、ほか、是でもか是でもかという難関が襲ってき
たが、鐡造は乗り切った。
色々と成長を続ける国岡商店絵の、嫌がらせは石油同業者飲みあらず、関係
省や政府からもあったが、鐡造は乗り切った。
極秘で進めて、世間を驚かせた、日本で始めて「イラン」の石油を買い入れたの
も鐡造だった。そこには、彼と同じく、「日本のため」と粋に燃える、船長の力添
えがあった。
私が驚いたのは、それまでの「イランの石油」を50年間も、イギリスが自由に
使い、イラン国民は其の恩恵を受けず、貧しかったということです。
GHQの要請で日本の全ての船舶は正午の位置を海運局に毎日報告しなけれ
ばならなかった。アメリカが、日本船の行動を監視するためのものだったらしい。
北九州沿岸から瀬戸内海にかけて暴れ周り、同業者から「海賊」と呼ばれた男
・鐡造は91歳まで健康で推移したが、腸閉塞の激しい痛みに見舞われ、寝付
くことなく其の生涯を終えた。
この本を読みながら、私の頭の片隅には、いつも、かって勤めていた会社の社
長のことが、思い浮かんでいました。
「なんと、よく似た人がいるもんだな~」と…。同世代を生きたお二人の着眼点
が「石油」だったこと。これからは石油時代になるということ。この本の主人公は
「石油」そのものを扱うこと、わが社の社長は「油を運搬する=タンカー」に目を
つけた。
本業以外に多角経営に乗り出した。わが社の社長も、船会社を本業としながらも、
横浜駅前に、結婚式場を造ったり、北海道のニセコにスキー場を造ったりし
ました。
お二人とも、政府に頼る石油業界、海運業界の姿勢を批判し、組合に背を向け、
出席もあまりしなくて「異端児」と呼ばれていた。
ただ、本の主人公は91歳まで長生きをされましたが、わが社長のほうは67歳
でこの世を去っております。社長といえば、雲の上の人、噂でしかしらない方で
すから、間違いがあってはいけないと思い、「ウイキペディア」で調べてみました。
あるかしら? と不安だったのですが、やっぱりありました。
やっぱり偉い人だった。