北一輝
昭和12年8月16日
面会人
妻 北 鈴子
長男 北 大輝
北
よく来て呉れた 有難う。
お前には二十五年の間、大変御世話になった、又 大輝にも色々世話になり 私はお礼を云ふよ。
夫れから お前等に特に言って置き度いことは、
今度私等が此の様になっても 決して軍部や軍法会議を恨んだり、悪意を持ってはいけない、
陸軍の人々も今度は大変心配して居る。
又 私に対しても能く諒解して 何とかして命丈は助けたいと云ふ気味は確に私は見て取った、
昨年以来最近も法務官の上の方の少将の方迄、私の所に来て色々のことを聞かれたが、
其時でも非常に叮嚀な言葉で実に私は有難く思った。
大体 今度の裁判は私にとっては誠に有難い裁判だ、
軍法会議としては私の真意等は能く汲んでは居るが、如何せん法律は曲げられないから、
陸軍の人も涙を呑んで裁判をして居られるのだ、私も又有難くお受けして居る。
尚 此処の刑務所も我々に対しては実に何とも言へない 唯感謝の外ない、位懇切に取扱って下さった。
先日も一寸話した様に、
今度私共は刑務所の中に居る人の中では実に貴族様だと思って居る。
だからお前達は良く解って居るだらうが、
内の方の人 特に昤吉 ( 弟 ) は 総て 「 早まり 」 勝ち 誤解し易い人だから、
お前の方から能く話をして陸軍の方々を恨んだり悪意を持ってはならんと私が言ったと伝へて呉れ、
岩田 ( 富美夫 ) にも同様 話して呉れ、
私は喜んで死んで逝く。
私は今度の公判に出る前 ( 当日の朝 ) 神仏の慈悲無辺と云ふことを知ったのだ、
今度の私の外史が出版されるのも皆神仏のお蔭だ。
私の体は最早不用の体だ 肉体は消へるものだ。
神様はお前方を守ってやるよ。
今度から自由の体になるのだ、私は夫程修養が出来て居ると思ふのだ。
お前方も今後益々神仏にお参りして呉れ。
妻
私共の後事は 決して 決して 御心配なさらぬ様に願ひます。
夫れから昨日 昤吉様が来られて、お母様に一寸会はせ度いと云はれましたが如何ですか。
北
先程も話した通り お母様には会はない方が良いと思ふので、昨日手紙を書いて置いたのだ。
昤吉と庄吉には一日会ひたいと思ふて居る。
妻
夫れは会っても良いが 昤吉様には私共二人 ( 妻と大輝 ) を頼む等と話さないで下さい。
話しても見て下さる人ではありませんから。
北
夫れは私も能く存じて居る。
昤吉と云ふ人間は今日迄代議士等に出て大体兄 ( 輝次郎 ) を利用し過ぎて居る、
尚又 二度も洋行しても私に挨拶に一度も来ない様な人間だから、 私も其辺の事は知って居る。
妻
先日 新聞に発表のあった時から覚悟して総て考へて居ります。
西田様と貴男を家にお迎へする考へです、又 私は将来 尼になる心算ですが許して下さいますか。
北
それはお前の考へ通りにするが良いだらう。
生計はどうだ。
妻
只今困ることはありません、又 尼になれば皆様が御神仏を差上げるから之を食へる様にと申されます。
大輝
私も最早学校は止めます、行きたくはありません。
北
夫れはお前の勝手だが 何も学校を止める必要はないだらう。
然し 何も機会技師になれと言はないから マアー 能く考へて見なさい、
お前には我々夫婦は子供の時から荒いこと一口言ったこともないよ、
故に総て熟考して良い様にして呉れ。
大輝のことは話さねばなるまいね。
妻
どうぞ夫れは話さないで下さい。
では又明日参りませう。
死刑囚に対する面会人の状況 昭和十二年八月十八日
陸軍大臣 杉山 元 殿 憲兵司令官 藤江惠輔
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昭和12年8月17日
面会人
甥 木本純一郎
甥 岩城吉孝
親戚 馬淵清邦
義妹 北 キ子
妻 北 鈴子
北
皆様 暑いのに有難ふ、別に心配しなくとも私は元気だから。
木本
お母様から宜しくと申して居りました。
清邦
色々お世話になりましたが、私も最早一人で大丈夫ですから。
吉孝
私も元気で居ります、大変お世話になりました。
キ子
お母様も大変元気です。
妻
今日 昤吉様と庄吉様と大輝と来ることになって居ます。
北
キ子 お前は色々と心配もあるだらうが庄吉と一所懸命働いて子供を育てて呉れ、
清邦は大輝と一緒に居る由だが 何分頼む。
木本は長崎から来て呉れて有難ふ、
私は何も心残りは無い、安心する ( 以下 様鈴子一名残り 他は出る )
妻
私は今日 昤吉様が来ますのに付て、一言申し度いと思ひます。
家屋の事ですが、お金は一文も呉れませぬ。
私は誰からも補助を受けて居ませぬ。
昤吉様は八百円も修理に使ったそうです、
又 私が後藤 ( 伝兵衛 ) 様に頼んであの家を昤吉様に買って下さいと話したら、
昤吉様の申されるには、家は兄から貰ったのだが 姉様はどうして左様な慾を言ふのだろ、
家は一千四百円の価値しかないから、一千四百円で買ふ。
名義変更の時 一千円渡すと云って、数ヶ月経って一千円貰ひました、
残り四百円は下さらぬから私はもう要りませぬと申しました、
以上の様なことですから
今日 昤吉様が来て其の話があって貴男と私と話が違ってはいけませぬから一寸申上げます。
然し、夫れを昤吉様に話せばきっと私に当りますから何卒話さずに下さい、お願ひですから。
岩田様は昨年暮れに二百円 其後に二百円 持って来て五十円宛西田様にやって呉れと云ひましたから、
西田様に二度で百円渡しました。
北
さうか
岩田が昨年末五千円持って来たが お前が私に話さないのだと今日迄信じて居たのだ。
さうか。
妻
岩田様は只今私に会ふのは避けて居ます。
北
ヨシヨシ 何も私が知って居る、
昤吉も来て何を話すか知れんが、
先般憲兵隊に私が居る時来て本人が帰って後、憲兵の話では
あの人は見舞に来たのか何かと言はれたが、実に私は恥しかったよ、
其の様に彼は太平楽のみ言って居る、私を利用して色々の事をして居るのだ、
金も相当貰って居ると思ふが 一文も持って来ないが ソーカ
然し、私は何も云はない 心配するな。
妻
私は今度 鷺宮に家を見付けてあります。
大輝と清邦と西田様と一緒に居る心算ですから御安心下さい、
夫れから 机、椅子は千円で売れます。
只今私 三千円程ありますから何も心配ありませぬ、
外のものは何も手は付けませんが 「 ワニ革 」 の鞄は家賃の方に入れましたから御承知下さい、
夫れから大輝のことは話さずに居て下さい、貴男が今度神様になられたら能々お解りになりますのでは、
又 参ります。
北
何事も能く解った 有難ふ。
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面会人
弟 北 昤吉
弟 北 庄吉
弁護士従弟 後藤伝兵衛
長男 北 大輝
北
ヤー 皆様能々有難ふ
昤吉
お母様は昨夜上京しました、お寺の和尚様が連れて来て呉れました、
お母様も先日の号外を持って居りましてよく諒解して居ますから御心配ない様に、
就ては お母様も是非面会し度いと云って居ますが
北
ソーカ 私はもう会へない心算で一寸書いて置いたのだが、お母様から云ふなら会って逝きたい、
では明日妻と共に来る様に云って呉れ。
昤吉
夫れで私も安心です、お母様のことは私が全責任を持って行きますから御心配せぬ様に。
北
どうか頼みます、庄吉にも色々お世話になったが此の先 昤吉を助けて能く働いて呉れ、
又 昨年中は色々心配かけて申訳ない、又 後藤には特にお世話になりました。
庄吉
いいえ 私こそお世話になりました、此の後は一所懸命働きますから 御安心下さい。
後藤
私は大変お世話になりました、後の事は総て皆でやって行きますから御安心下さい。
北
有難ふ 夫れから鈴子と大輝のことは構はずに任意にさして下さい、
少し私も考へごとがありますから
昤吉
承知しました。
北
夫れから 一寸是非君方に話しておきたい事は
此度の事件を世間では如何様に伝へて居るか知りませぬが、
今度の公判は実に道徳的裁判と云ふが 私に取りては誠に有難い公判です。
軍法会議でもよく私の心を酌んで 涙を呑んで裁判せられたことは 私は確に認めて居ります。
求刑後に於ても態々少将の方 ( 法務官=藤井喜一 ) が来られて、
然も 懇切に色々の事を お取調べになった為め、
其の内心はどうかして命は助け度いと云ふ心が私にはよく解りましたが、
何分法は曲げられぬ故 詮方なく今度の様になったのです、
又 私も法務官の人に求刑通りやって下さい、私は責任は免れませんと申し出てたこともある、
之で私も青天白日の身となります、
以上の様な訳ですから、
皆様 決して陸軍や今度の裁判に立たれた人々を恨んだり 悪く思ってはなりません、
呉々も私が云っておく、
私は有難くお受けして居ります。
大輝
お骨は東京に半分と佐渡の方に半分送る方が良いと思ひます。
昤吉
大体 お骨は法律では分骨を許さず 全部先祖の所に埋葬するが建前です、
之は何とかなりませう。
北
半分は若い者の所に置いて呉れ、半分は国の方に頼む、
西田も私も前から覚悟はして居たのだ、今更何も言ふことはありません、
皆様は 元気で働いて呉れ。
昤吉
お骨は佐渡の方には私は一寸行けないから姉妹と大輝と行って能くお祭り致します、
御心配要りません。
北
「 ラヂオ 」 が時々 聴へるので外部のことも少しは解るが何も話すまい、
では 暑い所 有難う
皆元気で居て下さい。
死刑囚に対する面会人の状況 昭和十二年八月二十日
陸軍大臣 杉山 元 殿 憲兵司令官 藤江惠輔