あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」

2021年08月27日 20時39分29秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 

西田税の墓 「 義光院機猷税堂腰居士 」 

要津山法城寺、西田税の霊はここに眠っている。
山陰本線の要衝である鳥取県米子市の中心部からやや東寄りに勝田 (かんだ) 山という小丘陵がある。
その丘の上に禅寺があり、てらの浦の地つづきの墓地の中ほどに、西田家の塋域えいいきがある。
「 西田家先祖累代之墓 」
側面に 「 大正十四年十一月、西田税建之 」
と 刻まれた大理石の小さな墓石の下に、西田税は葬られている。
大正十四年といえば陸軍騎兵少尉の軍籍を去り、革命の戦士として世にたとうと決意した年である。
税はこの時二十五歳、
来るべき非業の死を予想して自らの手で墓石を建てたものであろう。
これから十二年の間、激しい革命への導火線に、自ら点火しつづけて、
ついに 昭和十二年八月十九日、三十七歳の壮齢で刑死するのである。
ちちのみの父らまち給ふ風きよき  勝田ケ丘のおくつき所
処刑される二日前の八月十七日 「 最後によめる歌八首 」 のなかに残した遺詠である。
すでに生きながら涅槃の境に達したと思われる西田の脳裡に、
はるかなつかしい郷里の祖先の霊の眠る勝田ケ丘の塋域が、忽焉として浮かび上ってきたものであろう。
「 義光院機猷税堂居士 」 

と刻まれた西田の位牌が、
法城寺の持仏堂の奥まった一郭、西田家先祖代々の位牌にまじって安置されているが、
俗名も歿年月日も行年も彫られていない。
「 逆賊 」 という汚名のもとに銃殺された刑死者として、
刑死直後おそらく自分たちの手で作ったであろう位牌に、
母や弟が世間をはばかってわざと俗名や歿年月日を彫らなかったものであろうか。
あれから四十年も経っている。
敗戦の年からすでに三十二年、人心も世相も大きく変わっているのに、
遺族の人々の心の中には、まだ晴れやらぬ憤怨の思いが、たえずくすぶりつづけているためでもあろうか。

法城寺の門前に煙草や筆墨を売っている山口菊代という六十すぎの老婦人は、
当時を思いだしてこう語ってくれた。
「 私しゃね、ここでこうしてもう五十年近くも、前を通る葬式をみているが、
税さんの葬式みたいな淋しい葬式はしらないね。
後にも先にも、あんなあわれな葬式はほかになかったね。
税さんのおっ母さんは、武家の奥方のようなキリリッと気性の勝った人だったが、
税さんの葬式の時にはね、そのおっ母さんが税さんのお骨を抱いてね、
怒ったように口を堅くむすんで、まっ正面をにらみすえたまま歩いて行きなさる。
あとは四五人、兄弟とごく近しい親戚だけお供をしていましたよ。
忘れもしない暑い日でね、八月の末か九月初めだったでしょうよ。
見ていてあわれであわれで、まだ嫁にきて間もない私だったけど、物かげで泣いたのを覚えていますよ。
国賊だ、逆賊だといったって、死ねばみな仏じゃないかと、死んだ主人と話しあって、
涙をふいたのを覚えていますよ 」

当時の国民は陸軍の宣伝どおり、逆賊だ、アカだと信じこまされていたし、
新聞もそのような悪人の印象を与えるような表現をしていた、
ましてや温順で消極的なこの地方の人々である、
うっかり西田家に顔をだしたり、まして葬式に供などしたら警察や憲兵ににらまれて、
うるさくつきまとわれる、と恐れられていたからであろう。
西田税の生家はいまもある。
法城寺から歩いて五分ほどの、せまい町並の一角に、いまも仏具商を営んでいる。
「 あの頃、私たちが肩身の狭い思いをした事は、忘れようとしても忘れられません。
夜 どこからかとなく石が飛んできて、何度ガラス戸を割られたか知れません。
『 アカだ、アカの家だ 』 と、大声で罵られたことも幾度かありました 」
でも、米子分駐の憲兵さんは、夜分それとなく巡回して護衛してくれました 」
税の弟、博の未亡人 西田愛は生前私にこう語ってくれた。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
西田税 ニ ・ニ六事への軌跡 から

 
ふる里の 加茂の河邊の川柳
まさをに萌えむ 朝げこひしも


西田税の墓 「 義光院機猷税堂居士 」

2021年08月27日 12時07分05秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

西田税の墓

昭和五十六年六月、山陰旅行を機に米子の西田税氏の墓所を訪れた。
松江の湘南学園、岡崎功氏と同行し、
税氏の姪、西田真理子さんの案内で法勝寺境内の西田家墓所に立った。
「 西田家之墓 」 他二つの墓石のある墓所の中央に、
五寸角の木標が建っていて、それが税氏の墓標であった。
意外であった。
四十五年を経た今日、既に半ばくちけた木の墓標の下に眠る仮葬の姿に、
理解し難い複雑な心境で、花たてもない漂前を清めて生花を供えた。
墓標の正面には
「 義光院機猷ゆう税堂居士 」
と 書かれ、
左側面に
「 昭和十一年二月二十六日東京事件ニ連座、尊皇義軍ノ首魁トシテ殉職 」
と あり、
右側正面には、
「 昭和十二年八月十九日旧七月七日、没、俗名 西田税、行年三十七歳 」
と 書かれてあるが、
既に十年余を経たと思われる墓標の姿には 涙をさそった。
真横に建つ 「 西田家之墓 」 には、「西田税建之 」 と 刻まれている。
自分が建立した西田家の墓に入れず、
今だに仮の姿で眠る税氏を思い、
岡崎氏と淋しく目を見合わせたことであった。

西田家は古くから寺の下通りの博労町に仏具店を営んだ家で、
税氏が軍人となったあとの家業は弟が継いで盛業していた。
戦後弟夫妻の没後は娘、真理子さんが、
高校の先生の傍ら現在でも続けられている仏具店である。
この米子の弟一家と税氏の関係は複雑であったようだ。
税氏が軍人となって故郷を去ってから、
病気のため陸軍少尉で退官し東京へ出て北一輝に師事し維新運動に挺身し、
幾つかの事件にも関与し、
この間に結ばれた初子夫人との生活は、古い商家の米子の本家とは、
あまりにかけ離れたものであつたと思う。
かくて、初子夫人も米子の土地を踏まず、
税夫妻と米子の本家との間は円滑でなかったようだ。
こうしたことが税氏の死後四十五年の今日、
なお目前にする墓標であるとすれば、
故人の冥福いつの日かと断腸の思いを残して辞した。

松江に帰る車の中で、
岡崎氏は同じ山陰の同志として、
大先輩西田税国士慰霊のために、
あの墓標の文字をそのままに立派なお墓を建てたい、
それは私たちの責任であると情熱を傾けて語られた。
私としても ご遺族の方々にご協力して、
その日の来ることを熱願してやまない。

正真正銘の一心同体であった 税氏夫人初子さんも
五十六年正月、
一人淋しく逝かれた。
しかし遺骨は税氏のもとには帰らなかった。
悲しいことである。
「 西田税之墓 」
建立の日には、
晴れて同穴、
冥福を祈念するものである。

河野司 著 ( 昭和57年 ( 1982年 ) )
ある遺族の二・二六事件  から

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( 五輪塔・・昭和61年 ( 1986年 ) 9月 建立 )
昭和12年8月19日 (二十一) 西田税 
西田税の位牌 「 義光院機猷税堂居士 」