あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一 ・ 妻 登美子との最後の面會

2021年08月16日 13時51分47秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


昭和12年8月16日
面會人

妻 登美子
義弟  須美男
面会時間三十分



今日は早くから來たのか

午後一時 參りました

官房には 「 ラヂオ 」 が 良く聽こえるから外部の事も略々見當が憑く
支那の方も大分やって居る様だ

「 ラヂオ 」 も 餘り聽かれないでしょう

そうか どうも不審の事があると思った
今日も午後面會を許すと云ふ事も變だね
近く あるのかも知れない  お母様は元氣で居るのか

元氣です

執行する時は 前日には多分入浴 髯そり 等をやるから解るよ
俺も昨年の今頃の様に元氣がない  佛様になった
最早 死んで行く方が良いと思ふ

麻の襦袢が入って居りますか

入って居ない
俺は最後迄頑張ったから此頃は皆から嫌がられるよ
亂暴者だからね
然し 良く戰って來たよ  死んでも不足はない
然し どうも不振だね
近く やるかなァ  變だね
弟 ( 義理弟 須美男 )
大分 世の中からの人も解って來たらしいです

私は前からの事を總合して思ふと もう近日にあると思はれますから明日も參ります

早くやらねば此処の人も困るだらうからね
書物もあるが檢査受けて許されたものは返されるだらう
遺書は明瞭に判って居るから少し書く心算だ
「 お前 」 等は 能く内を整理して何事も落着いてやらねばいけないよ
俺は安心して居るのだから 心配は要らない

では又
明日參ります
死刑囚に対する面會人の狀況  昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿   
憲兵司令官  藤江惠輔
から

昭和12年8月17日
面會人
妻 登美子
義弟  須美男

兄さん 何か言って置く事はないですか

別に無いが 俺は今死ねばいい死所を得たと云ふものだ
革命家が銃殺されると云ふ事は本望だ
俺は勇ましく死んで行くよ
昨年二月二十八日に同志が皆自殺すると云ふのを俺一人が引き留めたのだ
死を恐れたのではないが 男らしく調べられ言ひ度い事を言ひたかったからだ
昨年澁谷憲兵分隊に村中と二人で調べられた時
分隊の新聞を見るに大命に抗して云々と云ふことが出て居たので
俺は村中さんに向ひ 俺達はどうしても駄目だ
御經でも上げて死にませうと其時から覺悟はして居た
何時やられても俺は本望だ
何か準備が出來て居るか

私も何時の事か判りませんので 別に準備はしてありませんが覺悟はして居ります

そーか 然し 同志の中で俺程貧乏の家に生まれたものはあるまい
色々苦勞はしたが 貧乏人の心持は同志の内で俺が一番知って居るので
貧乏人を助けたいが爲に今迄闘って來たが 貧乏人の方で俺達が思ふ程云ふ事を聽かない
それだから 何時迄起っても貧乏人は苦勞して居るのだ
俺も大陸軍を相手にして先を土俵際迄一時は追ひつめたから本望だ
お前達も餘りメソメソするな

私は貴男にイロイロ申上げたい事がりますが
今御話しすることは貴男に心配を掛けることになりますから云ひません
只 先日憲兵隊に呼ばれた時に 是非感想を書けと云はれましたので二三書きました。

其れから親友達に許されたら處刑された後で電報を十四五通出す積りだ
文面は此処の迷惑になってはいかんから 色々お世話になったと云ふ事丈け出すつもりだ
それから俺には古い借金があるのだ
今になっては先方から請求はすまいが だまって死ぬのも俺はいいが お前が心苦しい事があるといかんから言って置く

夫れは 私の方で全部解って居りますから よう御座います

夫れでも念の爲言ふ
藤屋に二〇〇圓位 他の一軒に七〇圓位 宮路 ( 宮路作次か ) と 二人で飲んだのが一〇〇圓位
山口の武學生養成所に二〇〇圓 其他少ないのを入れると千圓位あるかも知れぬ
俺は払ふ氣はあったのだ
大臣になったらと思ったが 此んな事になったので払へなくなって了ったのだよ
須美男さんは學校を出たら早く嫁さんを貰ふ方が良いよ
女の選定は お前のお母さんか姉さんの様な人を貰へば間違いないよ

嫌ですよ冷やかしては

冷やかすものか 俺は女の一番豪えらいのは西田さんの奥さん 其次は お前だと思って居るよ
俺の遺骨の事に就て山口の方からは何とも言って來ないか

餘り具體的な事は申しませんから 未だ何とも云って來ません

そーか お前達二人でいい様にして呉れればそれで満足だ
須美男さんも親孝行を忘れるな
俺はあの世に行ってからお前達のお父さんと自炊でもする積りだ
お前達は佛様に反抗するな
寿命だけは大事にせよ
尚 山田 ( 洋 ) に會ったら 俺は勇躍して死んで行くと云ふ事を傳へて呉れ

御會いしたら申上げて置きます

西田さんの奥さんは実に立派な方で
種々御厄介にもなって居るが御礼の手紙を出す事も出來ないので
お前達からよく御礼を申して置いて呉れ

承知しました
又 明日參ります
死刑囚に對する面會人の狀況  昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿   
憲兵司令官  藤江惠輔
から
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リンク → 磯部淺一 發 西田はつ 宛 ( 昭和十一年八月十六日 ) 


磯部淺一 ・ 家族への遺書

2021年08月15日 13時49分00秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


拝啓
梅雨が晴れたら厚くなる事だらう
御前達は元気かね
私はとても元気だ
身体も元気だが それよりも精神が非常に元気だから安心せよ
次の件は よく考へてそれぞれ処置せよ
一、臼田様へ手紙を出したいから住所を至急通知せよ
一、山口と新京へは私が決して忠義をフミチガヘテ居らぬと云ふことをよくよく知らせて呉れ
一、新聞社その他の者に面会するな、今は何事も云ふてはならぬ
一、山口の兄等があわてゝ状況したりする様な事がない様にあらかじめ通知しておけ
      ( 上京させないほうがいゝのだよ )
一、私の身の上の事ばかり心配しては  野中さんや河野さんにすまないと云ふことを考へよ
      又 自分の不幸をなげく先に田中さんやその他の新婚したばかりの奥さん方や
      子供の二人も三人もある奥さん方の事を考へねばいけないぞ
一、差入品を有難う
      着物類は絶対にいらないからもう決して心配するな
      食品の方は果物は止めて呉れ  その代りに夕御飯を差入れて呉れ
      あまり心配しないでカンタンにして呉れないとこまる
一、分籍の件は早くしてくれて大変よかつたね
      御前がよく気をつけてやつて呉れるので将来のことも少しも心配はない  安心し切ってゐる
一、これから先は私の代理は須美男さんだがから 何事につけても須美男さんを表面に立てよ
      そして女は出シャバラない様にせよ
一、一日も早く新京の父母と一所になる様に努力せよ
一、御経の浄写したのを入れて呉れて誠に有難い  御前達も御経をよめ
一、とみ子 御前には須美男さんをたのむよ
      此の数年間 運動にばかり力を入れて お前達二人の世話をちつともせず
       却て叱つたりしたのは誠にすまなかつた
      特に須美男さんに済まないから 将来私にかわつて御前が死力をつくして須美男さんを成功さして呉れ
一、須美男 元気かね
      あんたは必ず立派な人物になると兄さんは信じて居る
      兄さんの期待にそむかぬ様努力せよ
      姉さんは弱いからよく助けてあげよ
      お前は男だから 姉さんが泣く時でも決して泣いてはいけないぞ  男子は強くなくてはいけないぞ
一、その他 大切な事は遺書に詳しく書いておくから その積りでいよ
一、神仏を信ぜよ  必ず御前達を援けて下さる
十一年七月六日
登美子殿
須美男殿
 (註) 封筒に入れ、表書は、市内渋谷区代々木山谷三〇八 参宮内  磯部登美子殿  親展となっており、
        裏書は、渋谷区宇田川町  陸軍刑務所  磯部淺一、と記してある。


北一輝 ・ 妻 鈴子との最後の面會

2021年08月10日 14時37分38秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


北一輝 

昭和12年8月16日

面會人
妻 北 鈴子
長男 北 大輝


よく來て呉れた 有難う。
お前には二十五年の間、大變御世話になった、又 大輝にも色々世話になり 私はお礼を云ふよ。
夫れから お前等に特に言って置き度いことは、
今度私等が此の様になっても 決して軍部や軍法會議を恨んだり、惡意を持ってはいけない、
陸軍の人々も今度は大變心配して居る。
又 私に對しても能く諒解して 何とかして命丈は助けたいと云ふ気味は確に私は見て取った、
昨年以來最近も法務官の上の方の少將の方迄、私の所に來て色々のことを聽かれたが、
其時でも非常に叮嚀な言葉で實に私は有難く思った。
大體 今度の裁判は私にとっては誠に有難い裁判だ、
軍法會議としては私の眞意等は能く汲んでは居るが、如何せん法律は曲げられないから、
陸軍の人も涙を呑んで裁判をして居られるのだ、私も又有難くお受けして居る。
尚 此処の刑務所も我々に對しては實に何とも言へない 唯感謝の外ない、位懇切に取扱って下さった。
先日も一寸話した様に、
今度私共は刑務所の中に居る人の中では實に貴族様だと思って居る。
だからお前達は良く解って居るだらうが、
内の方の人 特に昤吉 ( 弟 ) は 總て 「 早まり 」 勝ち 誤解し易い人だから、
お前の方から能く話をして陸軍の方々を恨んだり惡意を持ってはならんと私が言ったと傳へて呉れ、
岩田 ( 富美夫 ) にも同様 話して呉れ、
私は喜んで死んで逝く。
私は今度の公判に出る前 ( 當日の朝 ) 神佛の慈悲無邊と云ふことを知ったのだ、
今度の私の外史が出版されるのも皆神佛のお蔭だ。
私の體は最早不用の體だ  肉體は消へるものだ。
神様はお前方を守ってやるよ。
今度から自由の體になるのだ、私は夫程修養が出來て居ると思ふのだ。
お前方も今後益々神佛にお參りして呉れ。

私共の後事は 決して 決して 御心配なさらぬ様に願ひます。
夫れから昨日 昤吉様が來られて、お母様に一寸會はせ度いと云はれましたが如何ですか。

先程も話した通り お母様には會はない方が良いと思ふので、昨日手紙を書いて置いたのだ。
昤吉と庄吉には一日會ひたいと思ふて居る。

夫れは會っても良いが 昤吉様には私共二人 ( 妻と大輝 ) を頼む等と話さないで下さい。
話しても見て下さる人ではありませんから。

夫れは私も能く存じて居る。
昤吉と云ふ人間は今日迄代議士等に出て大體兄 ( 輝次郎 ) を利用し過ぎて居る、
尚又 二度も洋行しても私に挨拶に一度も來ない様な人間だから、 私も其邊の事は知って居る。

先日 新聞に發表のあった時から覺悟して總て考へて居ります。
西田様と貴男を家にお迎へする考へです、又 私は將來 尼になる心算ですが許して下さいますか。

それはお前の考へ通りにするが良いだらう。
生計はどうだ。

只今困ることはありません、又 尼になれば皆様が御神佛を差上げるから之を食へる様にと申されます。
大輝
私も最早學校は止めます、行きたくはありません。

夫れはお前の勝手だが 何も學校を止める必要はないだらう。
然し 何も機械技師になれと言はないから マアー 能く考へて見なさい、
お前には我々夫婦は子供の時から荒いこと一口言ったこともないよ、
故に總て熟考して良い様にして呉れ。
大輝のことは話さねばなるまいね。

どうぞ夫れは話さないで下さい。
では又明日參りませう。
死刑囚に對する面會人の狀況    昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
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昭和12年8月17日
面會人
甥  木本純一郎
甥  岩城吉孝
親戚  馬淵清邦
義妹  北 キ子
妻  北  鈴子

皆様 暑いのに有難ふ、別に心配しなくとも私は元気だから。
木本
お母様から宜しくと申して居りました。
清邦
色々お世話になりましたが、私も最早一人で大丈夫ですから。
吉孝
私も元気で居ります、大変お世話になりました。
キ子
お母様も大変元気です。

今日 昤吉様と庄吉様と大輝と来ることになって居ます。

キ子 お前は色々と心配もあるだらうが庄吉と一所懸命働いて子供を育てて呉れ、
清邦は大輝と一緒に居る由だが 何分頼む。
木本は長崎から来て呉れて有難ふ、
私は何も心残りは無い、安心する ( 以下 様鈴子一名残り 他は出る )

私は今日 昤吉様が来ますのに付て、一言申し度いと思ひます。
家屋の事ですが、お金は一文も呉れませぬ。
私は誰からも補助を受けて居ませぬ。
昤吉様は八百円も修理に使ったそうです、
又 私が後藤 ( 伝兵衛 ) 様に頼んであの家を昤吉様に買って下さいと話したら、
昤吉様の申されるには、家は兄から貰ったのだが 姉様はどうして左様な慾を言ふのだろ、
家は一千四百円の価値しかないから、一千四百円で買ふ。
名義変更の時 一千円渡すと云って、数ヶ月経って一千円貰ひました、
残り四百円は下さらぬから私はもう要りませぬと申しました、
以上の様なことですから
今日 昤吉様が来て其の話があって貴男と私と話が違ってはいけませぬから一寸申上げます。
然し、夫れを昤吉様に話せばきっと私に当りますから何卒話さずに下さい、お願ひですから。
岩田様は昨年暮れに二百円 其後に二百円 持って来て五十円宛西田様にやって呉れと云ひましたから、
西田様に二度で百円渡しました。

さうか
岩田が昨年末五千円持って来たが お前が私に話さないのだと今日迄信じて居たのだ。
さうか。

岩田様は只今私に会ふのは避けて居ます。

ヨシヨシ 何も私が知って居る、
昤吉も来て何を話すか知れんが、
先般憲兵隊に私が居る時来て本人が帰って後、憲兵の話では
あの人は見舞に来たのか何かと言はれたが、実に私は恥しかったよ、
其の様に彼は太平楽のみ言って居る、私を利用して色々の事をして居るのだ、
金も相当貰って居ると思ふが 一文も持って来ないが  ソーカ
然し、私は何も云はない 心配するな。

私は今度 鷺宮に家を見付けてあります。
大輝と清邦と西田様と一緒に居る心算ですから御安心下さい、
夫れから 机、椅子は千円で売れます。
只今私 三千円程ありますから何も心配ありませぬ、
外のものは何も手は付けませんが 「 ワニ革 」 の鞄は家賃の方に入れましたから御承知下さい、
夫れから大輝のことは話さずに居て下さい、貴男が今度神様になられたら能々お解りになりますのでは、
又 参ります。

何事も能く解った  有難ふ。
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面会人
弟  北  昤吉
弟  北  庄吉
弁護士従弟  後藤伝兵衛
長男  北  大輝

ヤー  皆様能々有難ふ
昤吉
お母様は昨夜上京しました、お寺の和尚様が連れて来て呉れました、
お母様も先日の号外を持って居りましてよく諒解して居ますから御心配ない様に、
就ては お母様も是非面会し度いと云って居ますが

ソーカ 私はもう会へない心算で一寸書いて置いたのだが、お母様から云ふなら会って逝きたい、
では明日妻と共に来る様に云って呉れ。
昤吉
夫れで私も安心です、お母様のことは私が全責任を持って行きますから御心配せぬ様に。

どうか頼みます、庄吉にも色々お世話になったが此の先 昤吉を助けて能く働いて呉れ、
又 昨年中は色々心配かけて申訳ない、又 後藤には特にお世話になりました。
庄吉
いいえ 私こそお世話になりました、此の後は一所懸命働きますから 御安心下さい。
後藤
私は大変お世話になりました、後の事は総て皆でやって行きますから御安心下さい。

有難ふ 夫れから鈴子と大輝のことは構はずに任意にさして下さい、
少し私も考へごとがありますから
昤吉
承知しました。

夫れから 一寸是非君方に話しておきたい事は
此度の事件を世間では如何様に伝へて居るか知りませぬが、
今度の公判は実に道徳的裁判と云ふが 私に取りては誠に有難い公判です。
軍法会議でもよく私の心を酌んで 涙を呑んで裁判せられたことは 私は確に認めて居ります。
求刑後に於ても態々少将の方 ( 法務官=藤井喜一 ) が来られて、
然も 懇切に色々の事を お取調べになった為め、
其の内心はどうかして命は助け度いと云ふ心が私にはよく解りましたが、
何分法は曲げられぬ故 詮方なく今度の様になったのです、
又 私も法務官の人に求刑通りやって下さい、私は責任は免れませんと申し出てたこともある、
之で私も青天白日の身となります、
以上の様な訳ですから、
皆様 決して陸軍や今度の裁判に立たれた人々を恨んだり 悪く思ってはなりません、
呉々も私が云っておく、
私は有難くお受けして居ります。
大輝
お骨は東京に半分と佐渡の方に半分送る方が良いと思ひます。
昤吉
大体 お骨は法律では分骨を許さず 全部先祖の所に埋葬するが建前です、
之は何とかなりませう。

半分は若い者の所に置いて呉れ、半分は国の方に頼む、
西田も私も前から覚悟はして居たのだ、今更何も言ふことはありません、
皆様は 元気で働いて呉れ。
昤吉
お骨は佐渡の方には私は一寸行けないから姉妹と大輝と行って能くお祭り致します、
御心配要りません。

「 ラヂオ 」 が時々 聴へるので外部のことも少しは解るが何も話すまい、
では 暑い所 有難う
皆元気で居て下さい。
死刑囚に対する面会人の状況    昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔


西田税 ・ 妻 初子との最後の面會

2021年08月08日 12時13分57秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


昭和12年8月16日
面會人
西田初子


西田
お前一人か

いいえ 皆來て居ますが私一人にお願したのです
西田
詳しく發表になったか

はい 發表されましたが此処では話されませぬ  止められてます
西田
話さなくともよい
少しは違って居るかも知れないが大體に於てあの通りだ
まあ 死んで行く丈の事だ
僕の氣持も充分汲んでは居られるが何分あれ程の事をしたのだもの 其責任はあるのだ
僕は五 ・一五の時 汚名を着て死ぬより 病死するより 餘程幸福だ
どうせ弱い體  二、三年位 しかもてない僕の體だもの いい死ぬ時と思ふ
陸軍でも大分議論があるらしいことは分かって居るが 結局死と決した譯だ
血盟團や五 ・一五、今度と 色々の點で 若い者が私を持出したのだから
實に僕の理想と異なって居る點もあるが 事件の責を受けねばならないことは前から覺悟して居ったのだ
思ひ殘すことはない
此処で居る間は迚ても大切に取扱って貰った
實に感謝して居る
病院迄行った世話になり 今度はよい死時と思ふ
夫れから別に殘す物はないが
正尚には御下賜かし品の銀時計と秩父宮様より戴いた 「 ワイ襯衣 」 と 「 カウス 」 釦
を 家宝にして呉れと言ってやって呉れ
星野には東郷様の和歌の額をやれ
僕の書は餘り散さんで呉れ
強いて謂ふ人には やってもよいが僕の骨は半分東京に置いて同志と一緒 半分は國の方に送って呉れ
式等はするな
お前は佛像を持って居てくれ
其他にない
お父様やお母様に宜しくお詫申してくれ

よく解りました
では今日は何も話しませぬ
又明日參ります
死刑囚に対する面會人の狀況    昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和12年8月17日
面会人
西田初子の父 佐藤新兵衛
義弟 佐藤幸吉
妻  西田初子
西田
お暑い時に誠に有難う御座います。
此の様な事を致しまして申し訳ありませんが、総てお許し下さい。
実は お目にかかれないと思って居りました、之で私も安心出来ました。
本当に色々御心配のみかけましたが、今度はいい死場所です。
妻もよく尽してくれました、私は喜んで居ります。
後事は宜しくお願ひ致します。
初子は色々の関係上当分一人で任意にさして下さい、本人も覚悟して居りますから。

私も面会が出来て嬉しく思って居ります、後事は何も心配はいりません。
西田
幸吉様にも色々心配かけましたが許して下さい。
又 私の気持は今回発表された事でお解りと思ひます、私の心はあの通りです。
軍法会議の方も能く気持を酌んで好意を持って下さって居ります。
私の為すべきことは皆終りました、只 肉体は消えます。

お母様は矢張り 上京して会ひたいと云って 電報が来たそうですが 会ひますか。
西田
そうか 上京するか
会へるなら会ひたいよ、例へ 死顔でも母は見たいと思って来るだろう。
最早 俺は誰とでも会ふ、母が来たら お前 連れて来てくれ。

承知しました。
では 明日でも来たら直ちに参ります。
西田
もう会へないかも知れないが確りして行けよ。
死刑囚に対する面会人の状況    昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十八日に面會に參りましたとき、
「 今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な體と綺麗な心で明日の朝を待っている 」
と 主人に言われ、翌日處刑と知りました。
「 男としてやりたいことをやって來たから、思い殘すことはないが、お前には申譯ない 」
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると豫知するくらい、殘酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
「 これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません 」
「 そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ 」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面會室のドアの向うへ去るとき
「さよなら 」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。
・・・西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 


西田税 ・ 家族との最後の面会會

2021年08月07日 12時11分08秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


昭和12年8月16日
面會人
實姉  星野由喜世 ( 四六 )
實姉  村田茂子 ( 四〇 )
實弟  西田 博 ( 三一 )
實弟  にしだ正直 ( 二八 )
同妻  綾子 ( 二九 )
西田
御遠路有難う御座います。

兄様も來たいと申しましたが 何分忙しいので失礼致しますと謂ひました。
尚 前回上京の際は 色々とお世話になりましたと御礼を申して居りました。
西田
私はもう會へないと思って居りました。

私も會へないかと思ひました、 又 病気の時は嘸そざ御難儀でしたろう。
西田
やはり 病気では死なれないです。
新聞でお解りのことと思ひますが私の事は大體新聞の通りです。
御上の方も私の気持ちはよく汲んで下されたが、何分大變なことをしたのですから 其責任は免れませぬ。
然し、肉體は死んでも精神は必ず皆様を守って居ります。
私は軍人になった時は死は覺悟して居りました、
五 ・一五の時 汚名を着て死ぬより 又 病気で死ぬより 餘程幸福です。
夫れから 博、正尚 等も決して私の意思に反してはならん、
遺書にも一寸書いてあるが初子と皆で讀んでくれ。

お母様は今度 來ませぬが、能く解して居りますから心配しないやうに。
西田
初子には話したが、後始末の事だが 僕の遺骨は半分は國に送って呉れ、
其他は何としても都合のいいやうにして呉れ。
夫れから正尚には、秩父宮殿下より御下賜された襯衣はだぎと 「 カウス 」 釦を家宝として呉れ。
星野には東郷元帥の和歌を贈る。
博は相續人だから別に何もやらんでもよいだらう。
村田の姉様には書を上げる。
書は成丈 所々に配分したくない、僕の恥になるから。
別に話すこともない、是で僕も喜んで逝けます、皆仲良くして呉れ。
星野/村田
では又參ります。
今日は之で失礼します。
死刑囚に対する面會人の狀況    昭和十二年八月十八日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔

昭和12年8月17日
面會人
實姉  星野由喜世
實姉  村田茂子
實弟  西田 博
實弟  西田正直
同妻  綾子
従弟  佐藤有亮
西田
佐藤君有難う 色々お世話になりました。
佐藤
小生こそ色々お世話になりました。
星野
此処へ來て見ると何故うちの人も聯れて來なかったかと思って お前に申し譯ありません。
西田
いえいえ 是れだけ會へたら満足です、私は會へないと思って居たのですから。
私が病気の時等は自決する心も起した時もありましたが、後の事が氣になって思ひ止まりました、
夫れに私は五 ・一五の時には胸の病氣が出ないのに 今度胸の病氣が出て一寸苦しみましたが、
非常な手厚き取扱で命は助かりました。
星野
本當に私は皆様から承りましたが、今度の病の時には大變よくして下さったそうですね、
御礼を言ふにも誰に申して良いやらで 其儘にして居りますが、非常に親切にして貰ったそうですね、
有難いことです。
西田
正尚に言って置くが お前は決して俺の様なことをしてはならん、
間違のない様に眞面目に働いてくれ、私の信念は先日出た判決文の通りであるが、
私の心だから何事も誤解せぬ様に。
博は肥へ過ぎて居るから酒の方を注意せよ。

承知しました、兄様の言ったことを能く守り 皆で働いて行きます。
西田
冩眞はやはり前の冩眞が出ただらうか、誠に拙い冩眞でね
皆も一度はいい冩眞を撮って置くがよい、べつにもう話すことはない、安心して逝ける。
星野
私も帰って子供等に皆お前の言ふことを傳へます。
西田
そうして下さい、では皆様元氣でいて下さい。
一同
では もう歸ります
死刑囚に對する面會人の狀況    昭和十二年八月二十日
陸軍大臣  杉山 元 殿    憲兵司令官  藤江惠輔


西田税 ・ 遺書 「 同盟叛兮吾可殉 同盟誅兮吾可殉 」

2021年08月06日 11時52分46秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

殺身成仁鐵
血群概世淋
漓天劔寒士
林莊外風蕭
壯士一去皆
不還
同盟叛兮吾
可殉
同盟誅
兮吾可殉

囚未死秋欲
染血原頭
落陽寒
昭和十一年季冬
於獄中  幽因吟録二
西伯処士  西田税

みをころしてじんなす てつけんぐん
殺身成仁鐵血群
がいせいりんり てんけんさむし
概世淋漓天劔寒      大いなる世の中をなげくこと ・・・・天剣とは小生等が団結していた名前 ・・・・天剣党をつかつた
しりんそう ぐはいかぜせうせう
士林莊外風蕭々      士林荘とは小生の居所の名
そうし ひとたびさつてみなかへらず
壯士一去皆不還     
どうめいはんす われじゅんずべし
同盟叛兮吾可殉      同盟とは彼の将校等
どうめいちゅうす われじゅんずべし
同盟誅兮吾可殉      しけいになること
ゆうしゅう いまだしせず あきくれんとほつす
幽囚未死秋欲暮      ひとやずまい
せんけつげんとう らくやうさむし
染血原頭落陽寒      しけいになった代々木の原  夕日のこと    染血とは此所のこと

西伯処士 ・・・・西部伯州 〔  鳥取県西伯郡 〕 生れの浪人のこと
河野司 著  二 ・二六事件秘話  から

例の五 ・一五事件のとき、その日の夕刻代々木山谷の居宅で、
事件の行動妨害者、裏切者として同志川崎長光のために拳銃で数発射たれ、
奇跡的にも助かったが、体内にとどまった弾丸のために健康は良くなかった。
入所後ときどき腹部に激痛をうったえ、診断の結果弾丸摘出のため、
世田谷の東京第二衛戍病院に入院することになった。
私は勤務者の監督やら患者慰安の意味やらで、たびたび訪れた。
切開手術のときは、病院長から特に立ち会ってくれとのことで、初子夫人と共に立ち会った。
相当の時間を要する大手術であったが、順調に終了した。
西田は手術の半ばに、大胆にも小声で談笑することがあって、医官に注意されたのにもかかわらず、
私の顔を見て こまごまと礼をいうような落ち着き払った態度であった。
だから手術の立ち会いのような緊張さはなく、単なる患者見舞いの感じであった。
夫人も手術室の一隅に端然として、夫の大事を見守っていたが、
婦人ながらも その落ち着きは大したもので、さすがと感心したのである。
手術の経過は良好で半月位で退院した。

・・・挿入・・・
主人や北先生の裁判の前途がほとんど絶望的になりました十二年の五月、
五・一五事件の際縫い合わせた腸の傷痕が悪化いたしまして、西田は急性腹膜炎を起しました。
腸の傷はなかなか厄介なものらしゅうございます。
腸の縫合部分から滲出した(にじみだした)食物でちょうど豆腐のような環がとりまき、
それが腹膜炎を誘発したそうでございます。
衛戍病院で開腹手術を受けましたが、拘禁生活一年余り、体力は衰えており病状も悪く、
生命に危険があったからでしょうか、手術の立会人として十日程 夫の傍に付添うことが出来ました。
西田と夫婦になりましてから、あれほど心と心が通い合ったことはございません。
一言一言の会話にしみじみとした思い、いとおしみといたわりが滲んで居りました。
あの負傷が原因で、夫婦としての最後の頁を心をこめて綴りあえたのでございます。
あの狙撃事件で西田はひくにひけない境地に立たされ、
その結果 二・二六の青年将校との紐帯を問われたのですが、
その傷痕の後遺症によって本来許されない時間にめぐりあうことになったのでした。
人間の運命はわからないものだと思います。
手術は病室で行われました。
看守が立会っております。
わたくしは寝台の枕許にたちまして顔の両側においた西田の手を握っておりました。
体力が衰えておりますので、ほとんど麻酔剤は使えなかったようでございます。
西田は痛みをこらえるために、わたくしの手を強く強く握りました。
両手が痺れて感じなくなる程の力でございます。
立会いの看守が一人卒倒するような手術でございました。

・・・西田はつ ・・・

それから十五名の死刑執行後、昭和十一年十二月四日、監房訪問の際、

半紙に書いた左の漢詩を示して
「 署長殿いかがでしょう、これはものになっていますかね 」
と出した。
私は漢詩はよく分からないがと受け取った。
天有愁兮地有難  涙潜々兮地紛々
醒一笑兮夢一痕  人間三十六春秋
また、
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
囚未死秋欲
染血原頭落陽寒

この詩は刑死八カ月前の作である
ああ、人間三十六春秋     合掌
・・・塚本定吉  二・二六事件、軍獄秘話  から


西田税 「 このように亂れた世の中に、二度と生れ變わりたくない 」

2021年08月05日 11時49分31秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

(昭和十一年)十月二十二日、
死刑の求刑に対して北は、こう述べている。
「 裁判長閣下、青年将校等既に刑を受けて居ります事故、
私が三年、五年と今の苦痛を味う事は出来ません。
総てを運命と感じております。
私と西田に対しては情状酌量せられまして、
何卒求刑の儘たる死刑を判決せられん事を御願ひ申上げます 」

西田も同じように
「 二度と私は現世に生れ苦痛をいたしたくはありません。
狭い刑務所であります故、
七月十二日に十五名の青年将校及び民間同志が叛乱逆徒の汚名を着た儘、
君が代を唱へ聖寿万歳を連呼しつつ他界した事は、
私の片身を取られたと同様でありました」

と 陳述している。
死を覚悟している北や西田のことだ、
もっと痛烈な皮肉や批判の言をはなったことだろうが、
これは 公式な記録だから記録として残していないと思われる。
「 あるいはこの日であったかも知れないが、
私の記憶では翌くる年の十二年七月の中旬ではなかったかと思う。 
北、西田の最後の陳述を傍聴した。
その情景は今でも忘れられない 」
と、川辺はこう語った。
その日、北、西田の最後の陳述があるというので、川辺も第五法廷に入って傍聴した。
はじめに起った 北一輝は、国家改造方案は不逞思想ではない。
やがていつかは日本が行きづまった時、私の所説が必要になってくるだろう。
私の改造論を実現しようとして、青年将校たちが蹶起したとは思わないが、
彼らはもう既に処刑されている。
私も彼らに殉じて喜んで死刑になる気持ちでいる、
と淡々とした語り口で述べたのち、
最後にこう言った。
「 私はこれで喜んで極楽へ行けます。
お先に行って、皆様のおいでを待っております 」

と、笑みを含んだ顔で、深々と頭を下げた。
川辺は思わず涙ぐんだ。
こう淡々として死が迎えられるものだろうか、
話に聞く高僧の心境というのはこういう境地をさすのか、
と 心から感動した。
とたん、判士の一人が
「 馬鹿奴、貴様のような奴が極楽へ行けるか。貴様は地獄だ 」
と、憎々しげに吐き捨てるように言った。
「 心性高潔な被告と、品性下劣な裁判官とを象徴する言葉で、
巧妙なコントラストを見る思いであった 」  と、
西田税 
続いて西田が起ち、北と同じような所懐を述べたのち
「 昔から七生報国という言葉がありますが、
私はこのように乱れた世の中に、二度と生れ変りたくはありません 」

と、結んだ。
退廷する時、西田は川辺の顔をみて、微笑んだ。
「 おお、川辺か、よく来てくれた 」
と、声をかけてきた。
川辺は笑って答えようとしたが胸が迫って声が出ない。
黙って深く頭を下げたが、涙がホロリとこぼれた。
これが西田を見た最後であった。
しかし、川辺は西田のさっきの言葉が気になった。
「 せめて勇ましく七生報国、
七度生れて国に報いんと言ってくれるかと思ったが、
案に相違した西田の言葉は、なんとしても不満だ。
その夜、師の御坊の所へ聞きに行った 」
と、いう。
川辺は陸士に在学中、父親に死に別れ、
自身も死生の間をさまようような大病を病んで死生の問題を深く考えるようになった。
西田たちが国家改造論議に熱をあげているのを尻目に、
川辺は宗教書や哲学書を枕読していた。しかし、どうしても疑問が解けない。
大正十三年砲工学校に派遣されていた時、
顕本法華宗の大僧正 本多日生の講演を聞いた。
その話のなかに
「 人格実在論、霊魂不滅論の哲学的論証は、法華経以外では解決することはできぬ 」
と いう言葉があった。
これだと直感して、宿所の目黒の常楽寺を訪ねて、教えを乞うた。
本多日生は
「 今の君は 言ってみれば小学生程度だ。
小学生は算術は解けても 微積分はわかるまい。
微積分が理解できるまで修業することだ 」
と 言って、良い師僧を紹介してくれた。
妙満寺派の綜合宗㈻林の学頭、本村日法という権大僧正であった。
その頃、早稲田の正法寺に座っていた。
川辺は週に三回 ここに通い、本村日法の教えを受けることになった。
川辺の言う師の御坊とは、この人であった。
日法は川辺の不満らしい口吻を、静かに抑えて
「 いやいや、そうではない、
恐らくこんな言葉を吐ける人は万人に一人といないであろう。
死生を達観した達人、高僧の心境である 」
と、教えてくれた。
「 あの頃、西田も私も今流で言えば三十五か六、血気盛んな壮年だ。
こんな若い年で、こうした心境に到達した西田という奴は大した奴だ。
と 今さらのように感服したことを覚えている 」
と、川辺は語っている。
西田税 二・二六への軌跡 須山幸雄著 から
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西田税の最終陳述
私モ結論ハ北ト同様、死ノ宣告ヲ御願ヒ致シマス。
 私ノ事件ニ對スル關係ハ、
單ニ蹶起シタ彼等ノ人情ニ引カレ、彼等ヲ助ケルベク行動シタノデアツテ、
或型ニ入レテ彼等ヲ引イタノデモ、指導シタノデモアリマセヌガ、
私等ガ全部ノ責任ヲ負ハネバナラヌノハ時勢デ、致方ナク、之ハ運命デアリマス。
私ハ、世ノ中ハ既ニ動イテ居ルノデ、新シイ時代ニ入ツタモノト観察シテ居リマス。
今後ト雖、起ツテハナラナヌコトガ起ルト思ハレマスノデ、
此度今回ノ事件ハ私等ノ指導方針ト違フ、自分等ノ主義方針ハ斯々デアルト
天下ニ宣明シテ置キ度イト念願シテ居リマシタガ、此特設軍法会議デハ夫レモ叶ヒマセヌ。
若シ今回ノ事件ガ私ノ指導方針ニ合致シテ居ルモノナラバ、
最初ヨリ抑止スル筈ナク、北ト相談ノ上実際指導致シマスガ、
方針ガ異レバコソ之ヲ抑止シタノデアリマシテ、
之ヨリ観テモ私ガ主宰的地位ニ在ツテ行動シタモノデナイコトハ明瞭ダト思ヒマスケレド、
何事モ勢デアリ、勢ノ前ニハ小サイ運命ノ如キ何ノ力モアリマセヌ。
私ハ検察官ノ 言ハレタ不逞の思想、行動ノ如何ナルモノカ存ジマセヌガ、
蹶起シタ青年将校ハ 去七月十二日君ケ代ヲ合唱シ、天皇陛下万歳ヲ三唱シテ死ニ就キマシタ。
私ハ彼等ノ此聲ヲ聞キ、半身ヲモギ取ラレタ様ニ感ジマシタ。
私ハ彼等ト別ナ途ヲ辿リ度クモナク、此様ナ苦シイ人生ハ續ケ度クアリマセヌ。
七生報国ト云フ言葉ガアリマスガ、私ハ再ビ此世ニ生レテ來タイトハ思ヒマセヌ。
顧レバ、實ニ苦シイ一生デアリマシタ。懲役ニシテ頂イテモ、此身体ガ續キマセヌ。
茲ニ、謹ンデ死刑ノ御論告ヲ御請ケ致シマス。


西田税 「 家族との今生の別れに 」

2021年08月04日 11時32分49秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

 
西田税 
獄中の感懐

西田は逮捕されてから、銃殺されるまで約一年半、
陸軍衛戍刑務所に収容されていたが、その間、多くの詠草を残している。

秋深きかの山かげにきのこなど  尋ねし頃のなつかしきかな
母思ひはらから思ひ妹思へば  秋の夕べに風なきわたる
これは死刑を求刑された十月二十二日の日付がある。

越えて十一月十九日の手記には俳句や和歌を書きつけている。
むさし野に雁ないてゆくねざめかな
愚かなるわれ故辛き起伏の  妹を思へばいとしかりけり
悲しみの使徒の如くに老いのこる  母は悲しもひたにおろがむ
これも同じ頃の歌であろう、
母を思い、妻を思う切々たる真情を吐露している。
故郷の母は如何にと恋ひわぶる  ひとやの窓に秋の風吹く
蹌踉そうろうと別れてゆける妻添ひの  母の面影忘れえぬかも
秋風や幸うすきわが妹子が  よれる窓辺の思はゆるかも
妻子らをなげきの淵に沈めても  行くべき道と思はざりしを

この年の十二月四日、監房訪問の際、所長手渡すと付記された紙片に、
次の三首の和歌が書きつけてある。
たはやめのいもが世わたる船路には  うきなみ風のたたずあれかし
ふる里の加茂の川べのかはやなぎ  まさをに萌えむあさげこひしも
神風の伊勢の大宮に朝な朝な  ぬかづけるとふ母をおろがむ

西田は能書家として知られている。
世を慨き人を愁ふる二十年  いま落魄の窓の秋風    天心猛生
西田は遺墨の署名は たいてい 「 天心 」 と 号しているが、
まれに 「 西伯処士 」 とも署名している。
郷里の南東部に広がる平野と、そこに悠大な裾野を広げて聳そびえる山陰一の鐘状火山、
大山 ( 一七一三メートル ) が指呼のうちにのぞまれる。
その地域一帯が西伯郡である。
朝夕大山をのぞんで育った西田は、懐旧の情を托してこの名を号としたものであろう。

かの子等は あをぐもの涯にゆきにけり
涯なるくにを日ねもすおもふ

昭和十一年七月十二日、
青年将校たち十五名が天皇陛下万歳を叫び、
「 みんな撃たれたらすぐ陛下の前に集まろう 」
と 元気よく話しながら、無残に銃殺された日、
少し離れてはいても、
そのかすかな声やざわめきは西田の監房にも響いてきたのであろう。
彼はやるせない思いをこの歌に托した。
終日法華経を誦していたといわれる。
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翌十二年八月十日、
東京の弟正尚から、
いよいよ近い内に判決が下るという知らせで、博は内密に上京した。
六十八だというのに、事件以来めっきり衰えのめだってきた母に、
兄の死刑の判決が近いことを知らせるに忍びなかった。
しかし、気配でそれを悟った つね は、
店の仕事を嫁の愛にまかせて
十五日の汽車に乗り、
十六日には陸軍衛戍刑務所の面会所に現われて、みんなを驚かせた。
税は急に衰えのめだった母に気をつかい、
「 お母さん、泣けるだけ泣いて下さい。
汽車の別れでさえつらいものですのに、
いよいよ お母さんとは幽明境を異にするわけです。
どうか泣けるだけ泣いて下さい 」
と 言って自分の袂からハンカチをとり出して、母の手に渡した。
しかし、つね は 泣かなかった。
昔の武士の母のように端然として、
言葉少なに返事しながら、眸ひとみは食い入るようにわが子の顔をみつめていた。
「 十五日から十八日まで、母を先頭に初子、姉弟 それに同志の人々は、
毎日 面会に通いました。
しかし、すでに生きながら、涅槃の境に這入っていた弟から、
かえって面会にきた私たちが慰められ、激励されて泣くことが多かったのです 」  ( 村田茂子 )
「 十八日面会に行ったら、兄はきれいな頭を剃っていた。
それを見た瞬間、死刑は明朝だと知った。
スーと頭から血がひくように感じた。
涙がとめどなく出て止まらない。
兄が慰めるように 『 正尚、こんな句はどうだ。夏草や四十年の夢の跡 』 と言った。
『 兄さん、それは 』 と、言ったまま絶句した。
芭蕉の焼き直しですよとは言えなかった。
泣いている弟をいたわる死んで行く兄の最後のユーモアだったとは、
ずっと後に気がついた 」 と、これは末弟正尚の追想である。
また 家にいる博には、米子弁まるだしで、
「 昔から七生報国というけれど、わしゃもう人間に生れて来ようとは思わんわい。
こんな苦労の多い正義の通らん人生はいやだわい 」  ( 村田茂子 )
と、しみじみ語った。
この頃は、もう一ケ月も前から日支事変が起きており、
いよいよ戦火が拡大してゆく様相を示していた。
獄中の西田もこれをよく知っていた。
「 軍閥が政権をにぎったから、もう駄目だ。
奴らはこんな大きな戦争を起して、後始末に困るだろう。
自分で始めたんだから自分の手で始末をつけねばならん。
それが奴らのような下積みの庶民の心を踏みにじる奴にはようできんだろう。
元も子もなくしてしまう馬鹿な奴らだ 」  ( 西田愛 )
と 吐きすてるように話していた。
その後の経過は彼の予見どおり、ついに日本を滅ぼす破目になってしまった。
初子や博に自分の形見分けの品物をさしずしたあと、
涙をうかべている肉親の顔を脳裏に深く刻みこむように、
一人一人、じっと見つめながら
「 こんなに多くの肉親を泣かしてまで、こういう道に進んだのも、
多くの国民がかわいかったからなのだ。
彼らを救いたかったからだ 」
と 言って、金網越しに暖かい自分の手を一人一人に握らせ、握りかえしていた。    ( 村田茂子 )
死刑執行の近いことを知った西田は、
十五日には最も親しく信頼している姉茂子に、
十六日には妻初子に、それぞれ遺言状を書き残している。
初子にあてた手紙は、 « 西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 » を参照

ここでは姉茂子にあてた遺言状を紹介する。
平素の修練未熟、玆に非常の場合に立ち到り、
嘸々さぞさぞ御驚嘆の御事と恐察、不悌、何とも申訳無之次第に御座候。
只本年春御上京、御面謁の砌
みぎり一応申述候通り、何事も天命時運、
此度の儀も、私境涯に於て止むを得ざるに出でたものにして、
又 一面より見れば、好個過分の天与の死所死機なりしものに有之候。
然る処、七十年辛労の後、又復 今日のことに遭会して、老母の心中如何なるべきか。
断腸此事に候。
願くば此上とも姉妹兄弟、相和し 相依り、
夫々康福奉養、老母の残年をして更に心安からしめ給はむことを。
初子は小弟十二年来の真個の好半身、宿縁の愛妻、誠に不憫に堪えず候。
殊には同じき未亡の涯分、何卒私とも思召されて、修正後愛撫御懇情相願度候。
後事要々の件は夫々申残し候。
諸般について、初子 博 等より伝達せしむべく候。
本日は故秀善兄の御命日に当り候。
万懐殊更に深きもの有之候。
姉上様には、故兄の遺児の為に至重の御身、何卒一層御自愛御健祥にて、
一家御繁昌の程奉祈上候。
私、何事も貢献する所なくして終り、故兄に対しても慚愧此事に候。
御詫申上候。
万懐、滾々こんこんとして尽きず候も、如何ともするなし。
是れにて生前最後の御訣れ申上候。    泣血頓首
昭和十二年八月十五日        税
御姉上様  膝下
白い封筒の裏には 「 於東京衛戍刑務所  西田税 」
表には 「 村田しげ子様 」 とあり、西田の処刑後、刑務所の係官から本人に手渡された。

十七日には
「 残れる紙片に書きつけて贈る 」 として 「 最後によめる歌八首 」
を 書き残している

限りある命たむけて人の世の  幸を祈らむ吾がこころかも

あはれ如何に身は滅ぶとも丈夫の  魂は照らさむ万代までも

国つ内国つ外みな日頃吾が  指させし如となりつつあるはや

ははそばの母が心腸はらわた  断つ子の思ひなほ如かめやも

ちちのみの父らまち給ふ風きよき  勝田ケ丘のおくつき所

うからはらから世の人々の涙もて  送らるる吾は幸児なりけり

君と吾と身は二つなりしかれども  魂は一つのものにぞありける

吾妹子よ涙払ひてゆけよかし  君が心に吾はすむものを

・・・須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から


西田税 ・ 母 つね 「 世間がいかに白眼視しても、母は天寿を完する 」

2021年08月03日 11時28分22秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

判決の知らせを聞いた実母つねの心境

税が大変世間を騒がせて相すみませんでした。
税は
少年時代から全然変わった子供で
絶対に無口で必要以上の口をきかず
啓成校から米中に進み広島幼年学校入り
陸士に進んで 騎兵少尉となりましたが
どうしたものか 突然兵籍を脱してしまひ
大正十三年か大正十四年四月三日の夜
郷里を発って東京へ行ったのでした。
思へばこの時 既に
税の心中には大きな変革が起こってゐたのでせう。
何故兵籍を脱したか本人以外は誰も知らずにゐたのでした。
税が今日のやうになったのは長兄英文の感化によるものと思ひます。
英文は米中卒業後病のため充分成績をあげることができなかったのを悲しみ
税だけは自分の代わりに思ひ通りに教育させてくれといひ
一切英文が独断で幼年学校にも入れたものでした。
その英文は二十一で死亡したのですが
その時の遺書に
「 自分は病気で斃れたが税はきっと天皇の御役に立つでせう 」
と ありました。

税には昨年十月面会したが委しいことは語ってくれず
「 いかなることがあっても決して驚いてはならぬ 」
と いったので
私も
「 お前の気持ちはよく知っている
世間がいかに白眼視しても母は天寿を完する 」
と 申し渡しておきました。
本人は兄の遺志を体して御国のためにやったでせうが
税のしたことは果して国家のためだったでせうか。
税の心中を思ふと私の心も乱れ勝ちです

因伯時報 ( 昭和12年8月16日付 )


西田税 ・ 悲母の憤怒

2021年08月02日 11時24分27秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

悲母の憤怒

昭和十二年八月十九日、
午前五時三十分、
西田税は
東京代々木の陸軍衛戍刑務所内に特設された執行場において銃殺された。
行年三十七歳。
北一輝、村中孝次、磯部浅一 といっしょである。
同日朝、死刑執行を言い渡した塚本刑務所長に対して、静かにこう言っている。
「 大変お世話になりました。ことに病気のため、非常に御迷惑をかけました。
入院中、所長殿には夜となく、昼となく忙しい間を御見舞 ( 刑務所註、主として勤務監督なるも見舞と見て感謝す )
に 来て下さりまして、感謝に外ありません。
現下陰悪なる情勢の中の御勤務で、お骨折りですが、折角気を付けて御自愛を祈ります。
皆様によろしく 」
いよいよ刑架前にすわると、
看守に対し
「 死体の処置をよろしくお願いします 」
と、落ちついた態度で撃たれたのである。

北、西田の両家は、処刑の前の晩から、
北家の応接間に合同で祭壇を設け、両人の写真をかざり、たくさんの生花と茶菓を供え、
みんな喪服に着がえて祭壇の前に座った。
北家では、一輝の母リク、妻すず子、養子大輝、
西田家では、母つね、妻初子、長姉由喜世、次姉茂子、弟博、正尚、
その他両家の親戚の人々、
岩田富美夫、中野正剛ら同志の人々
が、六十人余りつめかけ、刻一刻と死期の迫る獄中の北、西田を思って一睡もしなかった。
中でも とりわけ西田を敬愛し、期待し、信頼していた母親のつねは、
平静に座しているものの胸中には あふれるばかりの憤怒の炎があった。
  夜もすがらありし昔の思ひ出を
  くり返す間も夜半の秋雨
と、この夜あけに詠んでいる。

朝六時すぎ、
「五時五十一分絶命されました 」
と 憲兵が知らせにきた。
一同は つね を先頭に、衛戍刑務所さしまわしの車で、遺体の引取りに向った。
門前に新聞社の人が数人つめかけていたが、入門できないでいた。
一同は刑務所の裏門から入ったが、
刑務所側はひどく敬意のこもった態度で、丁重に遺族たちを迎え入れた。
数人の僧侶が静かに読経するなかで、遺族たちはそれぞれの肉親に最後の対面をした。
西田は平素とかわらない静かな表情をしていた。
額の銃弾のあたった所は白布で巻いてあったが 血がにじんでいた。
手は縛られた跡もなく、清潔に身体をふいて、白衣を着せ、
寝棺の中にていねいに納められていた。
係官は御遺体に不審な所があれば何でも聞いて下さいと、
弟の博に言ったが不審な所はなかった。
妻の初子は、
「 額の血が流れて顔にかかっていたので拭おうと思ったけれど、
女の体はけがれているようで、気後れがして、とうとう手をふれませんでした 」
と 語っている。 ( 『 妻たちの二・二六事件 』 ) ・・・リンク→西田はつ 回顧・西田税 (三) あを雲の涯
刑務所の中でも、火葬場に向う車の中でも、
つね は一言も口をきかず 一滴の涙も流さなかった。
必死に堪えている風であった。

落合の火葬場では
村中、磯部、北、西田 四名の遺骸を一度に焼いたが二時間で終った。
ここにも同志の人々が四、五十人供をしてきて、
お骨を拾わして下さいといって、まだ熱い遺骨を競うようにして 丁寧に拾った。
西田の遺骨は分骨して、
東京に残す箱は妻の初子が、郷里の墓地に埋葬する箱は弟の博が捧げもって、
北家にひきあげたのはもう昼すぎであった。

北家の応接間の祭壇に安置された 北、西田の遺骨に香をたいていた つね は、
黙然としてしばらく座っていたが、突然 伏して腸はらわたをふりしぼるようにして泣いた。
堪えに堪えて、堪えぬいた涙である。
かたわらで黙ったまま、頬をつたう涙をぬぐっていた中野正剛は、
つね のやせた肩に手をかけて
「 お母さん、泣かれる気持はわかりますが、泣いてはいけません。
貴女は後世に名の残る子供を生んだお方です。
不肖 中野が生きている限り必ず西田君を世に出します。 絶対に出してみせます 」
と、力強い声で慰めた。
しかし、その中野正剛も、
それから六年後の昭和十八年十月二十七日、

時の首相 東條英機の圧政に憤怒し、
悲壮な割腹自殺をとげたことは周知のとおりである。
…リンク→落日の序章 ・1 『 中野正剛の自刃 』 

最愛の子を、
しかも無実の一庶民を法をふみにじって銃殺した陸軍に、
つね は やり場のない憤怒をいだいたであろうことは想像にかたくない。
  一九いく空の東こちも南も晴れよかし  命捧し北と西田に
  蓮の葉にしばし宿りし玉露も  一九夜をまたで法のりのうてなに
この日、
つね は こう詠んでわが子の霊前にささげた。
田舎町の仏具商の未亡人としては、ずばぬけた教養と識見の持主であった。
これは必死の思いを歌に托し、
とおい虚空のわが子の霊によびかける悲母の歎きであった。
  老ぬればいつか嵐の誘ふらん  逝きしみたまに逢ふもなつかし
この時、つね は 六十八歳、
余命は永らえたくはないが 非業の死を遂げたわが子を思うたびに、
断腸の思いにかられては歌を詠んだ
  初雪や胸のつららの夢思ひ  いつかはとけん老のからだに
しかし、つね の憤怒の思いはついに溶けることなく、
昭和十七年八月十四日、七十三歳でこの世を去った。
「 母の口惜しさは、年ごとに強まったように思います 」
と、村田茂子は ある日の つね の思い出を語る。
日支事変が膠着状態に陥った頃だから、昭和十三・四年頃であったろうか。
ある日、後続の妃殿下が伊勢神宮にお詣りになった。
婦人会の幹部であった茂子は、奉迎準備にかり出されていたが、
おりから遊びに来ていた母を、一目拝ませてやろうと、飛んで帰った。
「 妃殿下がもうすぐお着きですよ、一緒に拝みましょう 」
と、声をかけたが、つね は 返事をしない。
二度目の催促に
「 わしゃ行かん、見たくもない 」
と、顔を真赤にして吐きすてるように言った。
つね は 若い時から皇室崇敬の心は篤く、
新聞に出た皇室の写真すら、下におかないように子供たちに言い聞かせていた。
その昔の母の姿を思い浮べ、茂子は 今更のように、
母の心の傷跡の深さを知った。

須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から