あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 ・ 遺書 「 同盟叛兮吾可殉 同盟誅兮吾可殉 」

2021年08月06日 11時52分46秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

殺身成仁鐵
血群概世淋
漓天劔
林莊外風蕭
壯士一去皆
不還
同盟叛兮吾
可殉
同盟誅
兮吾可殉

囚未死秋欲
染血原頭
落陽寒
昭和十一年季冬
於獄中  幽因吟録二
西伯処士  西田税

みをころしてじんなす てつけんぐん
殺身成仁鐵血群
がいせいりんり てんけんさむし
概世淋漓天劔寒      大いなる世の中をなげくこと ・・・・天剣とは小生等が団結していた名前 ・・・・天剣党をつかつた
しりんそう ぐはいかぜせうせう
士林莊外風蕭々      士林荘とは小生の居所の名
そうし ひとたびさつてみなかへらず
壯士一去皆不還     
どうめいはんす われじゅんずべし
同盟叛兮吾可殉      同盟とは彼の将校等
どうめいちゅうす われじゅんずべし
同盟誅兮吾可殉      しけいになること
ゆうしゅう いまだしせず あきくれんとほつす
幽囚未死秋欲暮      ひとやずまい
せんけつげんとう らくやうさむし
染血原頭落陽寒      しけいになった代々木の原  夕日のこと    染血とは此所のこと

西伯処士 ・・・・西部伯州 〔  鳥取県西伯郡 〕 生れの浪人のこと
河野司 著  二 ・二六事件秘話  から

例の五 ・一五事件のとき、その日の夕刻代々木山谷の居宅で、
事件の行動妨害者、裏切者として同志川崎長光のために拳銃で数発射たれ、
奇跡的にも助かったが、体内にとどまった弾丸のために健康は良くなかった。
入所後ときどき腹部に激痛をうったえ、診断の結果弾丸摘出のため、
世田谷の東京第二衛戍病院に入院することになった。
私は勤務者の監督やら患者慰安の意味やらで、たびたび訪れた。
切開手術のときは、病院長から特に立ち会ってくれとのことで、初子夫人と共に立ち会った。
相当の時間を要する大手術であったが、順調に終了した。
西田は手術の半ばに、大胆にも小声で談笑することがあって、医官に注意されたのにもかかわらず、
私の顔を見て こまごまと礼をいうような落ち着き払った態度であった。
だから手術の立ち会いのような緊張さはなく、単なる患者見舞いの感じであった。
夫人も手術室の一隅に端然として、夫の大事を見守っていたが、
婦人ながらも その落ち着きは大したもので、さすがと感心したのである。
手術の経過は良好で半月位で退院した。

・・・挿入・・・
主人や北先生の裁判の前途がほとんど絶望的になりました十二年の五月、
五・一五事件の際縫い合わせた腸の傷痕が悪化いたしまして、西田は急性腹膜炎を起しました。
腸の傷はなかなか厄介なものらしゅうございます。
腸の縫合部分から滲出した(にじみだした)食物でちょうど豆腐のような環がとりまき、
それが腹膜炎を誘発したそうでございます。
衛戍病院で開腹手術を受けましたが、拘禁生活一年余り、体力は衰えており病状も悪く、
生命に危険があったからでしょうか、手術の立会人として十日程 夫の傍に付添うことが出来ました。
西田と夫婦になりましてから、あれほど心と心が通い合ったことはございません。
一言一言の会話にしみじみとした思い、いとおしみといたわりが滲んで居りました。
あの負傷が原因で、夫婦としての最後の頁を心をこめて綴りあえたのでございます。
あの狙撃事件で西田はひくにひけない境地に立たされ、
その結果 二・二六の青年将校との紐帯を問われたのですが、
その傷痕の後遺症によって本来許されない時間にめぐりあうことになったのでした。
人間の運命はわからないものだと思います。
手術は病室で行われました。
看守が立会っております。
わたくしは寝台の枕許にたちまして顔の両側においた西田の手を握っておりました。
体力が衰えておりますので、ほとんど麻酔剤は使えなかったようでございます。
西田は痛みをこらえるために、わたくしの手を強く強く握りました。
両手が痺れて感じなくなる程の力でございます。
立会いの看守が一人卒倒するような手術でございました。

・・・西田はつ ・・・

それから十五名の死刑執行後、昭和十一年十二月四日、監房訪問の際、

半紙に書いた左の漢詩を示して
「 署長殿いかがでしょう、これはものになっていますかね 」
と出した。
私は漢詩はよく分からないがと受け取った。
天有愁兮地有難  涙潜々兮地紛々
醒一笑兮夢一痕  人間三十六春秋
また、
同盟叛兮吾可殉
同盟誅兮吾可殉
囚未死秋欲
染血原頭落陽寒

この詩は刑死八カ月前の作である
ああ、人間三十六春秋     合掌
・・・塚本定吉  二・二六事件、軍獄秘話  から