あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 二十二士之墓 」 開眼供養法要

2021年08月28日 14時33分23秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)



«昭和27年 ( 1952年 ) »
仏心会々報 ( 再十三号)
報告事項
1  二十二霊分骨埋葬式の件
七月十一日午後四時、賢崇寺に於て読経の後、
梅雨そば降る合間に滞りなく御埋葬を了し、新しい墓所に永遠の眠りにつかれました。
参列者
原、垂井、丹生、西田、白井、河野、外に宇治野時参氏。
2  「 二十二士の墓 」 完成の件
連日の雨のため工事進捗せず焦慮しましたが、
雨を冒して強行の結果、当日の一二日朝完成を見まして安心致しました。
自然石の台石、墓碑の調和、寛治もく、
曹洞宗管長禅師の御染筆も一入はえて、二十二士に相応しい落着いた姿です。
3  十七回忌法要及 「 二十二士之墓 」 開眼供養法要の件
七月十二日午後二時より執営みました。
降り続いた雨も幸ひ当日は降りみ降らずみの雨もよひの天候でしたが、
午後からはどうやらあがり、
午前中から会員の方々初め御関係の方々の御応援を得て万全の準備を整えました。
一時頃から御参列の方々相次ぎ 定刻には百五十名に近い多数の御参会をみました。
戦災後の狭い仮本堂に溢れ出る盛況の中に、
二時十分 一同着席、
次の順序で荘厳な御法事が始りました。
司会には 大蔵栄一氏が当って下さいました。
一、導師入場  藤田住職以下三名の導師入場。
二、開式の辞  大蔵栄一氏 開式を告ぐ。
三、読経  藤田師の法語につぐ読経 厳粛に流れる。
四、祭文  施主体表 河野司氏祭文を奏す。
五、弔詞  当時の同志代表し 末松太平氏 切々たる弔詞を朗読さる。
六、弔電弔詞疲労  大蔵栄一氏披露。
七、読経  再び読経に入り 最後に二十二霊の俗名、戒名が呼上げられ 一同粛然合掌、
      厳粛の気 堂内に溢れる。
八、仏心会代表 栗原氏に続いて遺族一同焼香、次いで 参列者に移り、
      真崎甚三郎元大将を始め全員の焼香を終る。
九、遺族挨拶  遺族を代表し栗原氏立たれ声涙共に下る感激の挨拶を述べらる。
      遺族席の嗚咽しきりに、堂内の緊迫頂上に達した洵に劇的な幕切れであった。
一〇、導師退場、閉式。

次いで書院にて小憩の後、一同境内墓地の式場に移る。

「 二十二士之墓 」 開眼供養法要
三時間半墓前の準備も整ひ、一同境内の新墓所に参集し、
黒白の幔幕まんまくを廻らし墓前の供花も清楚に、厳粛な環境裡に開式しました。
参列者からの御希望で、
先づ、国家を斉唱し、二十二士霊に相応しい雰囲気を醸しだすうちに、
藤田導師による読経と開眼式が厳かに執営まれました。
報道陣のカメラマンが入交る間に焼香に移り、初めて墓前に頬づく遺族達の感激は一入に深く、
一六年間の宿願を果し得た欣びは隠しきれないものが見られました。
あの時以来、初めて姿を見せられた老齢の真崎大将は
感慨深い面持ちで粛然と二十二士霊への焼香を捧げられる姿は特に印象的でした。
続いて 故人との関係が深かった方々、立場を同じくされた同志の人々、
理解と同情に溢れた方々が次々と墓前に額づかれ、その数百五十名を数へました。
かうして 意義深い法要を終りましたが、
地下の二十二士霊は、嘸かし満足して永遠の眠りにつかれたことと信じます。

多数の参列者の方々の姿が山門を去られたあと、
静かになった墓前に、藤田師を中心に栗原さんをかこんで感激の写真を撮った。
張りつめたこの日までの緊張が一度崩れた思いで、栗原さんと手を握り合って涙にくれた。
ありがとう、ありがとうと ただそれだけを繰返して、
私の手を握りしめた栗原さんの目からとめどなく涙が落ちた。
判り過ぎるほど判る その心境は、
私も同じで いつまでも墓前に立ちつくす二人のうしろに、
静かに藤田住職が寄り添っておられた。
泣き出しそうだった曇り空から ぽつぽつと小雨がこぼれだし、
夕色こめる賢崇寺の森に、記念すべき十二日の行事の幕が静かにおりて行った。

最後に、当日の祭文と弔詞を書き残して置く。

祭文
仏心会を代表し 謹んで二十二士柱の御霊に申上げます。
本日十五士の十七回忌を迎へ 併せて 二十二士の合同墓碑の建立を見るに当りまして
こんなに多数の人々が皆様の前に集まって居ります。
十六年の越し方を回想し 只々感慨の無量を禁じ得ません。
皆様もきっと喜んで下さると思ひます。
顧みますれば、あの日以来 私達が皆様に御約束しましたことは、
何とかして皆様を一つのお墓に葬ってあげたい、そして 安らかに眠って頂きたいといふことでした。
それは あの朝、刑場に臨むに当って、
「 俺達は 撃たれたら直ぐ陛下の御側に集まろう 」
と 誓ひ合って、
聖寿の万歳を三唱し、従容として死に就かれたと聞きました。
然し 本当の皆様の心状は、
死んでも 死にきれない死であったことを 私達はよく知って居たからです。
御分骨を持寄って、温い賢崇寺の懐ろに御預り頂いたのもそのためでした。
そしていつの日か必ず雪冤えんの日を期しつつ 毎月此処に集まっては御冥福を祈り続けて参りました。
其間に幾度か合同埋葬の企図も進めましたが、
常に空しく挫折して 今日に及びました。
しかし乍ら
本日の十七回忌を機として、
ささやか乍らも墓所を撰し、
墓碑を建て、
始めて皆様への御約束を果す事が出来ました。
感激これに過ぎませんと共に、物心両面に寄せられました沢山の方々の御懇情に対しては、
洵に感銘に堪えません。
皆様も必ずや喜んで下さったことと信じます。
此の次は 皆様の上にかけられました いまわしい汚名を解きほぐすことです。
私達はこのために更に努力を重ねますことを御約束致します。
在天の皆様、
どうか安らかに御眠り下さい。
茲に謹んで御冥福を祈ります。
昭和二十七年七月十二日
仏心会代表  河野司

弔詞
謹んで二十二士の御霊に申します。
二十二士の御霊よ、
あなたがたが先立たれましてより早くも十七年の歳月は流れました。
その過ぎ去った世の様を顧れば、
ことごとく あなたがたが憂えられた如き成行でありました。
思はぬことの起るが世の習ひとは云へ、
意志をつぐべく遺されたものの怠りを自責するのであります。
昔、盟友の墓前に空しく哭こくした人がありました、
われ等また同じ思ひを抱いて今 墓前に立つのであります。
十七年前のあの頃は、殊に雨が多く、
人々はあなたがたの志を悲しんで涙雨といっていました。
ことしもあの時と同様、雨が多く当時を偲ぶこと一入であります。
その雨もようやくあがった今日、
ゆかりの人々あまた墓前につどい、
あなたがたの冥福を祈る次第であります。
又 幽現一如と申せば ここを幽現交流の場として
改めて意志をつがんことを誓ふのであります。
二十二士の御霊よ
願はくば われ等の微衷をくみ給へ。
昭和二十七年七月十二日
一同代表  末松太平

河野司 著  ある遺族の二・二六事件 から