あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中橋基明 『 感想 』

2021年08月25日 05時07分57秒 | 中橋基明


中橋基明

感想

明治維新の志士をしのびて
國史を繙ひもときて 特に感を深こうするものは中大兄皇子の入鹿を大極殿に誅せし事、
次に和気清麿の精忠、次に南朝の忠臣、次に明治維新を中心とせる志士の活躍なりとす
就中 明治維新の志士に就て其傳記等を讀むに萬感交々至り、
痛く盡忠報告の念を湧起せしめらる、
此度蹶起し一死以て邦に報ゆるてふ精神は正しく維新志士より受けしもの、
蓋し莫大なるものあり
即ち 志士の難を破りし第一にして足らず、
或は刑場の露と消え 或は獄裡に憤死し 或は戰場に斃れ 或は毒刃に衂じく
或は孤島に呻吟し 或は天涯に漂泊する等 其趾惨又惨、其憂悶の情如何ばかりなりしぞ、
仰で訴へんと欲するも訴ふべきの天なし、俯して哭せんと欲するも容るべきの地なし、
徒に恨を呑んで不歸の鬼と化するあらんのみなりしなり、嗚呼
されど、果せる哉 其熱誠は空しからず、
凝結して一大変動を生じ大政復古---四海統一、制度齊整、文物燦燃、
玆に光輝燦然たる明治聖代は現出しぬ、
昔日鬱屈を呑んで地に入りし之等英霊、僅かに瞑目するを得たり、
其鞠躬盡瘁、忠烈義勇を天下に發揮し、
多年積威の覇府を倒し天日を既倒に挽回し維新の新天地を作る、其功や蔽ふべからず、
東奔西走するや妻子を捨て父母を離れ、総てを犠牲として王事に勤労す、
亦吾人の範たり
志士の折にふれて、或は時世として詠める歌の多き中、
いささか吾人の胸中と一脈相通るものを述べ、彼を称え己の蹶起前後の心事に及ばん
古來、和歌は其人の胸中を率直簡潔に表現せるものにして、
以て詠者の憂國の至情を知り得て余あり、言々句句深く肺腑を衝く、
之を讀み之を口誦む者誰か勤王の志を抱からん、
之等志士は明治に至りて皆贈位せられ、以て其微忠を認められしなり、
以下若干、特に感を深うせしものを記さんとす

大和の義擧に參加せる伴林光平の詠める
  時のまに茨からたち刈のけて  埋れし御代の道ひらきせん
げに昭和の御代にも茨、からたちの多きを感嘆せずんばあらず、
同じく義擧に參加せる乾十郎の歌に
  いましめの縄は血汐に染まるとも  赤きこころはなどかはるべき
正しく悲壮なり、
天忠組として蹶起せるも李らず、朝議亦変更せられ、遂に四周より攻撃を受くるに至る、
遂には十津川の人民も寝返りを打ち、勅命なりとて之を誘ひ討つ、
天忠組の一人 水郡善之祐の謂へる
「 行けば敵丸に斃れ留れば餓死せん、
均しく死なんか雑兵の手に斃れ狼猪の口腹を飽さんよりは從容自首し、
我党義擧の由來を声明し、
以て天下後世の人をして大義名分の爲めに一身を犠牲に供したることを知らしめんに如かず 」
と言へり、
而して大和の義擧、
則ち天忠組の志士は當時大部殺されたりしも明治の大御代に至りて皆其精神を認められたり、
一方勅命として行動せし十津川の民其他各藩の攻撃軍は別に後世勤王と認めず、
これ等の事實は彼の吾人の蹶起せし時と相似たる点の甚だ多きを見るなり、
義擧に加はりし伴林光平は實に賭し五十二なりしとぞ

生野銀山の義擧に加はれる河上弥一郎の詠める
  おくれなば梅も桜も劣るらん  さきがけてこそ色も香もあれ
  議論より實を行なへなまけ武士  くにの大事をよそに見る馬鹿
同じく參加せる伊藤竜太郎の詠める
  事なきをいのるは人の常なれど  やむにやまれぬ今の世の中
其意気や誠に壮なり、
殊に 河上弥一郎の死せる其歳僅か二十一、
良く其名を後世に止めたり、
吾既に三十、人生の半ばを過ぎぬ、
などか命の惜しかるらん
桜田門の変に參加せる鯉淵要人の詠みし
  ひとすぢに國の御爲と思ひ立つ  身は武蔵野の露と消ゆとも
同じく参加せる齋藤監物の詠める
  國の爲つもる思ひも天津日に  とけてうれしき今朝の淡雪
岡部三十郎の桜田の成功を知りて詠める
  願ふより嬉しと思ふ  今朝の雪
桜田に奮戰せし彼の鯉淵は年五十一なり、
大和義擧の伴林光平と共に合せ考ふる時、吾人は徒に坐するに忍びず、
正に懦夫をして奮起せしむ、
即義により節に殉じて毫も死生を顧みざること期せしむ

顧みれば 二月二十六日より 三日間、
淡雪頻りに降りしきるあの時を思ひ、桜田の擧を思ひ、
亦同じき場所にありて實に感慨無量なるものあり、澤島信三郎の詠める
  よしあしは人のおもひにまかしつつ  御國の仇に死する大丈夫
  ながらへて浮世のはしを思ふより  いさぎよくふめ死出の旅路を
  木枯らしに散れる木葉の有りてこそ  霜ふる秋としる人ぞしる
生死褒貶ほうへん度外視せる之等の男々しき決意を見て、
吾人の心境も亦近しと感ずるなり
僧信海の獄に入りし時に詠める
  まごころを盡さん時と思ふには  うきに逢ふ身を嬉しかりける
増田仁右衛門の獄中の述懐に
  君が爲め盡ししかひも難波江の  よしもあしきと替る世の中
これ等が歌を口誦む時、今日轉た感慨無量なるものあり
青木新三郎の詠める
  朝夕に君がみためと思ふより  外に心はたもたざりしを
國司信濃の詠める辭世に
  よしよし世を去るとても我心  御國の爲に猶盡さばや
毛利登人の辭世の歌に叉り
  すめらぎの道しるき代をねがふ哉  我身は苔の下に住むとも
大和國之助の同じく
  國の爲世の為何か惜しからん  君にささぐるやまと心は
松島剛蔵の同じく
  君が爲盡す心のすぐなるは  空行く月やひとり知るらん
井出孫太郎の詠める
  捨小舟よる瀬の湖の差引きは  きみが心にまかせはててん
福岡総助の詠める
  やがて見よ曇らぬ月は九重の  みやこの空にすみ渡るらん

之等の歌は吾人の今日の心境にさも似たり、
此処に始めて維新の志士の心境を審に體験するを得たり、
以上の志士にして多くは獄中に斬らる、
されど其志聊かも屈する処なく、死するも勤王の念慮を失はず、
正を持して空しく消えし亦惜しからずや
高橋庄左衛門の絶命の歌にあり
  今更に何をか言はんいはずとも  盡す心は神や知るらん
年十九にして勤王に殉ず、
其玉砕の跡や正に大和魂の華なれや、男子すべからく瓦全を恥づべし、
齷齪あくせくとして全を求むるは世にも多きも、吾人の執らざる処たり
明治大帝、彼の高橋に従四位を贈らる、蓋し異教なりと謂ふべきも又故なきに非ざるなり
下野甚平の詠める
  身は苔の下に朽つとも五月雨の  露とは消えし大和だましひ
其烈々たるジン盡忠、心誰がたたへざらん、亦吾人の範たり
彼の水戸藩の志士武田正生は如何なりしぞ、
終始勤王の爲に盡し、
家族の男子を悉く率い水戸の變に会し、
正を持して奮闘せしも遂に幕兵の攻撃する処となれり、
力戰の後、遂に京師に上り闕下に伏して素志を訴へんとして水戸城を斷念し、
障碍を排除しつつ進軍せしも力竭き金沢藩に捕へられ斬せられて水戸に梟きょうせらる、
武田が平常の行爲たるや實に勤王そのものにして、水戸の變に於ても藩の奸党を攻撃中、
幕兵の攻撃を受くるに至りしなり、
其終始を踏みて遂に梟きょうせらる、明治の聖代に正四位を贈らるると雖、
彼が心事を思ひて一鞠の涙なき能はず、天を仰いで嘆息せずんばあらず
白石内蔵進の詠める
  魁けて散れややまとの桜花  よしやうき名は世にのこるとも
此の儀性的精神ありて志士は己を空しうして國に殉ぜしにあらずや、
亦吾人の範たり、
名もいらず 地位も金も總ては吾人に不要のものなり、
只君國の二字あるのみ
維新の志士は大部は正を持して屈せず、
獄に栲こうせられ 或は憤死し斬に処せられ 或は梟きょうせられ 其屍は徒に刑場に放棄せられたり、
而して之に至るに讒言ざんげんせられ、誣告せられ、蜚語を鞏いられ、註計に陥入れられ、
或は忌避せられしもの其の大部なりとす、
事全く無根なりとても直に官禄を褫うばい脱し 禁錮し 或は遠島となる、
何ぞ其の悲惨暴戻なる、明治維新の偉大なる程それ程、
裏面には大なる志士の血の叫びあるなり、犠牲の存在するなり、
維新亦志士の血の結晶なりと言ふも過言にはあらじ

志士たるや其年齢の上下を問はず、
弱冠より古希に亙るいやしくも勤王の志ある者總て蹶起せるなり、
身命喪とり顧ず、
されど一般に三十歳以下の者多く國事に斃れたり、
橋本佐内然り 吉田松陰然り 藤田小四郎然り、彼等にして天寿を全うせば如何ばかりならん、
國家の爲に無念と言ふべし、
楠公父子の盡忠を當時誰か知りしぞ、賊臣として埋るる事数百年、亦何をか言はん、
吉田松陰の間部閣老を刺さんとして言へる
「 もし運拙く 却て我身を失ふとも
天下の義旗打挙り 闕に赴くの首唱となり
千載の公憤を發し義を取り仁をなす道理なれば いかで命を惜まんや 」 と、
今日 明治維新の志士を偲びて萬感交々至る、
玆に思ひ出づる儘に記す

河野司著  ニ ・ ニ六事件 獄中手記遺書 から


この記事についてブログを書く
« 中橋基明『 随筆 』 | トップ | 栗原安秀中尉達の寄書き »