あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

二・二六事件慰霊像

2021年08月30日 05時28分43秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)

計画以来
三年余の歳月を経過して、
宿願の建立を果し、
その当日を迎えた。
慰霊像除幕式
昭和四十年二月二十六日、
事件三十年目の思出の当日は快晴に恵まれ、
屋外の行事であるだけに、関係者の喜びは一入でありました。
正午前から続々と参列者を迎え、
殊に地方から上京された方々は早くから到着され、
関係者と懐かしく歓談される姿があちこちに見受けられました。
開会までの時間を渋谷公会堂地下食堂の控室に休憩して頂き、
定刻十分前に係員の誘導で除幕式現場に参集しました。
現地は二面を道路に接する角地であり、
道路綿から直立する二米の側壁の上の敷地に、七米の台座、
その上に四米の像が安置されている構造でありますので、
道路以外に余地のない地形のため、地元警察と数次の打合せの結果、
特に道路使用の許可を受け、参列者一同道路を埋めて着席しました。
総数約七百名余にのぼる方々の御参会を仰ぎ得ましたことは望外の感激でありました。
紅白の幔幕まんまくをめぐらし、多数の献花、花輪に飾られた式場の中央には、
地上十四米の慰霊像が、紅白の皮幕をかぶり 晴の除幕を待ち、
台座の中央正面には、
曹洞宗管長、高階王龍仙禅師に御願いして書いて頂いた
『 慰霊 』 の文字が刻まれた大理石の像銘を囲んで、仏心会の生花が飾られ、
台座の左に延びる側壁には日の丸の国旗が張られ、
約二坪の前庭には皇居の御庭から移し植えられた梅の樹が、
早くも白い花をほころばせて こよない雰囲気をただよわせていました。
定刻一時半、導師賢崇寺住職、藤田俊訓師及 二伴僧の他に
九州唐津からの善興寺住職 朝日一誠師、
浦賀からの東福寺住職山田勝剛師を加えた五師が、
一団髙い前庭正面に着席され、
司会の末松太平氏によって開会致しました。
先づ、
国家 君が代を全員起立のうちに斉唱し、
仏心会 河野司代表の挨拶の後、
愈々全員の見上げる緊張のうちに、
栗原安秀中尉の母堂克子さんの手によって 除幕の紐が引かれました。
一瞬 サット落ちる紅白の幕、
温容をたたえ右手をあげた慰霊観音像の姿が、
万雷の拍手と歓声のうちに その全容を現わしました。
洵に感激高潮の一瞬でありました。

続いて
建立代表者、河野司氏により、啓白文が像前に奏上され、
次いで
開眼供養の読経が厳かに誦しょうせられました。
藤田導師による香語は
雨雪風霜三十年  昨非今是世論遷
虚空現出慰霊像  恩怨倶亡月皎然
事件以来三十年、終始一貫変ることなく、
諸霊を護り抜いて今日を将来して下さった藤田師の高徳が、
この香語の中にこめられた思いであります。
続いて事件殉難諸霊の三十回忌法要に移り、読経のうちに焼香に入りました。
仏心会遺族十三家、及殉難警察官遺族代表土井スミ子未亡人、
関係殉難者代表宇治野みき子未亡人を始めとした遺族の焼香に続き、
参列の荒木貞夫、石原広一郎、寺島健、三浦義一、橋本徹馬、木村武雄氏を初めとして
多数の参列者の焼香がいつまでも続きました。
立ちこめる香煙のうちに、
最後に殉難者五十士の名が読上げられ、
約一時間に亘る行事がここに滞りなく終了致しました。
末松太平氏の閉式の挨拶をもって式を閉じましたが、
最後には千に近い参列者を迎え、時余に及ぶ屋外の行事にも拘らず、
終始粛然と取営まれましたことは、洵に感激の外なく、
通りすがりの多数の市民のうちにも立止って合掌される姿も見られて嬉しい限りでした。
尚、歩道から道路を埋めつくした参列者と一般通行人や自動車の整理のために、
渋谷署からの交通係十数名の応援によって、
懸念された交通整理も終始整然と処理されたことも、喜びでありました。


祈念慰霊像竣工祝賀披露会
除幕式を終了し、参列者一同は隣接の渋谷公会堂の地下大食堂に移っていただきました。
正二時半、末松太平氏の開会の辞にはじまりましたが、
三百名以上を収容する階上も一杯の参加者で埋りました。
河野仏心会代表が完成までの経過と御支援に対する感謝の挨拶を述べたあと、
参列者を代表し、荒木貞夫、石原広一郎両氏の懇篤なる祝詞と時局に対する熱烈な所見が述べられ
満場の人々に深い感銘を与えられ、
故人を偲ぶことも切なるものがありました。
荒木さんは九十歳に、石原さんは八十歳に近い御老齢にも拘らず、
烈々たる憂国の御熱弁には ただ頭が下がる思いでした。
終って工事関係者、設計の川元良一先生、彫刻の三国慶一先生
及び、工事請負の鈴木工務所にそれぞれ感謝状の贈呈があり、
その労に感謝を表しました。
続いて塚田新潟、竹内青森 両県知事を初め 全国各地よりの多数の祝電の披露があり、
最後に建立準備事務所の事務局を代表し小早川秀浩氏より募金経過及概況を報告し、
今後共一層の御支援を懇請するところがありました。
このあと鈴木岳楠師社中による吟詠が行なわれ、これで披露会を閉じました。

終って隣室に訪けられた祝宴場に移り、
それぞれ宴卓を囲んで祝盃をあげ、歓談と追憶の一時を送りました。
全国各地からこの日のために上京、
参列された方は、
九州の朝日、八木、江口、高村氏、四国の平石氏、北陸の越村、明石氏、
新潟の登石氏、大阪の木積、広田氏、愛知の三浦、佐藤氏、
静岡の七夕氏、秋田の石沢氏、青森の大久保氏 等の多数を数えましたことは一入感謝に堪えません。
又 遺族は全国から殆ど上京し参列致しました。
こうして遠来の人々や、旧知の方々を囲んだ歓談、
懐旧談はいつ果てるとも思えぬ楽しい宴席でしたが、五時近く意義深い一切の行事を終えました。
最後に、
この行事の戦後を通じ、準備、運営其他に御協力いただいた多数の皆様には
この稿をかり厚く御礼申上げます
・・・「 建立経過報告書 」 から

 昭和49年 ( 1974 年 ) 11月23 日 ( 土 ) 吾撮影
慰霊像碑文
台座の側面に はめこんだ黒い大理石にこの像の由緒書の碑文が彫込んであった。
歩道に直面して 通行人の足をとめていた。
日展書道審査員、花田峰堂氏の書である

碑文
昭和十一年二月二六日未明、
東京衛戍の歩兵第一、第三聯隊を主体とする千五百余の兵力が、
かねて昭和維新断行を企図していた野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹶って重臣を襲撃し、
総理大臣官邸、陸軍省、警視庁 等を占拠した。
斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監はこの襲撃に遭って斃れ、
鈴木侍従長は重傷を負い 岡田総理大臣、牧野内大臣は危く難を免れた。
此の間 重臣警備の任に当たっていた警察官のうち五名が殉職した。
蹶起部隊に対する処置は 四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが、
二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に集結した。
世にこれを二・二六事件という。
昭和維新の企図懐えて主謀者中、野中、河野 両大尉は自決、
香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により、
東京陸軍刑務所に於て刑死した。
この地は その陸軍刑務所の一隅であり、
刑死した十九名とこれに先立つ 永田事件の相沢三郎中佐のが刑死した処刑場の一角である。
この因縁の地を選び 刑死した二十名と自決二名に加え、
重臣、警察官 この他 事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、
且つは 事件の意義を永く記念すべく、
広く有志の浄財を集め、
事件三十年記念の日を期して 慰霊像建立を発願し、
今ここに その竣工を見た。
謹んで諸霊の冥福を祈る。
昭和四十年二月二十六日
仏心会代表
河野司 誌

( 碑文 原案は末松太平氏 )
野司 著  ある遺族の二・二六事件 から