あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

磯部淺一、登美子の墓

2021年08月17日 13時25分31秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


磯部淺一、登美子の墓

南先住駅のすぐ前に、
明治維新の犠牲志士たちの墓所として、有名な回向院がある。
院内を入るとすぐ右手に橋本佐内の墓があり、
そこを抜けた墓地には
幕末、小塚原刑場で斃れた 吉田松陰、頼三樹三郎
他 多数の樹形志士たちの墓が コの字形に経並んでいる。
この一画に隣接して
「 磯部浅一、登美子之墓 」 がある。
 
側にささやかな
「 二・二六事件 磯部浅一之墓 」
と 書いた木漂が建っている。

山口県の日本海側漁村に生れた磯部の墓が、どうしてここにあるのか。
建てられたのは刑死後三年余といわれるが、
誰が施主となって建立したかは詳かでなく、
事件前後を通じて磯部夫人と最も親しかった西田税夫人の初子さんに訊ねても判らなかった。
私は磯部と陸士同期で、同じ朝鮮に勤務し、同志として親交を重ね、
そのため事件後は陸軍刑務所に収監された 佐々木二郎氏とともに、
定期的に回向院に同行墓参し、お寺の住職とも話し会ったが、
寺側にも記録なく、今ではほとんど訪れる人もなく無縁に近い墓となっていると聞いた。
この時 思い浮べたのは、
登美子夫人の弟で、磯部なきあとを継いで 磯部姓を名乗る須美男氏の存在だった。
仏心会の法要にも姿を見せず、
事件のこと磯部のことにも触れることを避けた人だったが、
文通だけは保たれていた。
近年いろいろのことで親しく相会する機会も生れていたので、
須美男氏に連絡し 初めてこの間の事情を知ることができた。
それによると、
処刑後磯部の遺骨は郷里の山口には分骨だけ送られ、
本骨は夫人のもとに置かれてあったのだが、
昭和十五年に、
磯部が現役時に勤務していた陸軍糧秣本廠の廠長であった 堀内少将の努力で、
維新因縁のこの地を選して 秘かに建墓埋葬されたという。
夫人の病死は十六年三月であるから、まだ生存中であったが、
病身だった夫人の願いでその名も一緒に刻まれたという。

須美男氏は当時まだ学生で、その頃の状況下に処していっさい関知させられなかった。
外国語学校を出て戦争から敗戦、姉の関係姓を名乗っても、磯部家との縁は薄く、
戦後は米軍関係に勤務する須美男氏の足は、回向院にむくこともなく打過ぎたようだ。
既に定年を過ぎ 米軍関係も退いた今日、須美男氏は今度の私との会談のうちに、
これからは回向院の供養にはげみたいと語ってくれた。
しかし自分なきあと無縁になることは避けられない心残りも語った。
思いは私も同じである。
磯部夫妻と最も親しかった西田夫人も佐々木二郎氏も 相次いで昭和五十六年春に逝った。
淋しさを禁じ得ない。

山口県の寒漁村の漁家に生れ、貧困のうちに育った磯部は、
その抜群の才能を惜しんだ有志の支援によって、広島幼年学校から陸士へと将校の道を進んだ。
事件連座の他の将校たちとは異なった環境を経た磯部の性格は、
いつか青年将校運動に没入し、終始その先鋭となって事件蹶起の主役となり、
在獄中の激越な遺書を残したことは故なしとしない。
その革命児、波乱の一生がそのままこの墓所になっていることを感じる。
将来無縁になるであろうこの墓であるが、
吉田松陰をはじめとする明治維新の殉職志士たちに伍して、
奇しくも 昭和維新殉難の唯一人として永遠にこの地に眠ることは、
せめてもの救いであり、叛逆児磯部の本懐とする安らぎの地であるかもしれない。
冥福を祈ってやまない。

河野司 著  ある遺族の二・二六事件  から
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七月十一日、
東京衛戍刑務所で面会して帰宅後、
登美子は住んでいた参宮荘のアパートの管理人に対し、語った
『 磯部は面会の時、夫が死刑に処せらるる事を心配するよりも、
助命の心配する事が本当だと言っておりました。
夫は非常に元気で、
我々は大勝利を得たのだ。吾々は殺される理由はない。
彼等が吾々を殺さなければ、自分が危ないから殺すのだ。
俺は殺されても魂は何時までも生きている。
だから俺が殺されても成仏する様 お経をあげないでくれ。
骨は故郷へ持ち帰らぬよう こちらへ葬ってもらいたい 』
・・特高警察の週報から
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義父は昭和二十六年、七十六歳で他界いたしました。
義父の死後、義父が生前大切にしていた手文庫を開けてみましたら、
磯部さんからの遺書と思われる達筆で書かれた毛筆の封書と、
一通の電報が沢山の書類と一緒に入れてありました。

電文は
『 イマカラユキマス、オセワニナリマシタ、イソベ 』
とあり、発信は渋谷局となっていましたから、
処刑直前に奥さんにでも言いつけて打ったものと思われます。
御生前の凛凛しかった磯部さんの姿を思
い浮かべ、
電文をうつ 奥さんの心中を推しはかって
思わず泣き伏してしまったことを覚えております。
・・松岡とき (松岡喜二郎の長男省吾の妻 )