あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税 ・ 悲母の憤怒

2021年08月02日 11時24分27秒 | あを雲の涯 (獄中手記、遺書)


西田税 

悲母の憤怒

昭和十二年八月十九日、
午前五時三十分、
西田税は
東京代々木の陸軍衛戍刑務所内に特設された執行場において銃殺された。
行年三十七歳。
北一輝、村中孝次、磯部浅一 といっしょである。
同日朝、死刑執行を言い渡した塚本刑務所長に対して、静かにこう言っている。
「 大変お世話になりました。ことに病気のため、非常に御迷惑をかけました。
入院中、所長殿には夜となく、昼となく忙しい間を御見舞 ( 刑務所註、主として勤務監督なるも見舞と見て感謝す )
に 来て下さりまして、感謝に外ありません。
現下陰悪なる情勢の中の御勤務で、お骨折りですが、折角気を付けて御自愛を祈ります。
皆様によろしく 」
いよいよ刑架前にすわると、
看守に対し
「 死体の処置をよろしくお願いします 」
と、落ちついた態度で撃たれたのである。

北、西田の両家は、処刑の前の晩から、
北家の応接間に合同で祭壇を設け、両人の写真をかざり、たくさんの生花と茶菓を供え、
みんな喪服に着がえて祭壇の前に座った。
北家では、一輝の母リク、妻すず子、養子大輝、
西田家では、母つね、妻初子、長姉由喜世、次姉茂子、弟博、正尚、
その他両家の親戚の人々、
岩田富美夫、中野正剛ら同志の人々
が、六十人余りつめかけ、刻一刻と死期の迫る獄中の北、西田を思って一睡もしなかった。
中でも とりわけ西田を敬愛し、期待し、信頼していた母親のつねは、
平静に座しているものの胸中には あふれるばかりの憤怒の炎があった。
  夜もすがらありし昔の思ひ出を
  くり返す間も夜半の秋雨
と、この夜あけに詠んでいる。

朝六時すぎ、
「五時五十一分絶命されました 」
と 憲兵が知らせにきた。
一同は つね を先頭に、衛戍刑務所さしまわしの車で、遺体の引取りに向った。
門前に新聞社の人が数人つめかけていたが、入門できないでいた。
一同は刑務所の裏門から入ったが、
刑務所側はひどく敬意のこもった態度で、丁重に遺族たちを迎え入れた。
数人の僧侶が静かに読経するなかで、遺族たちはそれぞれの肉親に最後の対面をした。
西田は平素とかわらない静かな表情をしていた。
額の銃弾のあたった所は白布で巻いてあったが 血がにじんでいた。
手は縛られた跡もなく、清潔に身体をふいて、白衣を着せ、
寝棺の中にていねいに納められていた。
係官は御遺体に不審な所があれば何でも聞いて下さいと、
弟の博に言ったが不審な所はなかった。
妻の初子は、
「 額の血が流れて顔にかかっていたので拭おうと思ったけれど、
女の体はけがれているようで、気後れがして、とうとう手をふれませんでした 」
と 語っている。 ( 『 妻たちの二・二六事件 』 ) ・・・リンク→西田はつ 回顧・西田税 (三) あを雲の涯
刑務所の中でも、火葬場に向う車の中でも、
つね は一言も口をきかず 一滴の涙も流さなかった。
必死に堪えている風であった。

落合の火葬場では
村中、磯部、北、西田 四名の遺骸を一度に焼いたが二時間で終った。
ここにも同志の人々が四、五十人供をしてきて、
お骨を拾わして下さいといって、まだ熱い遺骨を競うようにして 丁寧に拾った。
西田の遺骨は分骨して、
東京に残す箱は妻の初子が、郷里の墓地に埋葬する箱は弟の博が捧げもって、
北家にひきあげたのはもう昼すぎであった。

北家の応接間の祭壇に安置された 北、西田の遺骨に香をたいていた つね は、
黙然としてしばらく座っていたが、突然 伏して腸はらわたをふりしぼるようにして泣いた。
堪えに堪えて、堪えぬいた涙である。
かたわらで黙ったまま、頬をつたう涙をぬぐっていた中野正剛は、
つね のやせた肩に手をかけて
「 お母さん、泣かれる気持はわかりますが、泣いてはいけません。
貴女は後世に名の残る子供を生んだお方です。
不肖 中野が生きている限り必ず西田君を世に出します。 絶対に出してみせます 」
と、力強い声で慰めた。
しかし、その中野正剛も、
それから六年後の昭和十八年十月二十七日、

時の首相 東條英機の圧政に憤怒し、
悲壮な割腹自殺をとげたことは周知のとおりである。
…リンク→落日の序章 ・1 『 中野正剛の自刃 』 

最愛の子を、
しかも無実の一庶民を法をふみにじって銃殺した陸軍に、
つね は やり場のない憤怒をいだいたであろうことは想像にかたくない。
  一九いく空の東こちも南も晴れよかし  命捧し北と西田に
  蓮の葉にしばし宿りし玉露も  一九夜をまたで法のりのうてなに
この日、
つね は こう詠んでわが子の霊前にささげた。
田舎町の仏具商の未亡人としては、ずばぬけた教養と識見の持主であった。
これは必死の思いを歌に托し、
とおい虚空のわが子の霊によびかける悲母の歎きであった。
  老ぬればいつか嵐の誘ふらん  逝きしみたまに逢ふもなつかし
この時、つね は 六十八歳、
余命は永らえたくはないが 非業の死を遂げたわが子を思うたびに、
断腸の思いにかられては歌を詠んだ
  初雪や胸のつららの夢思ひ  いつかはとけん老のからだに
しかし、つね の憤怒の思いはついに溶けることなく、
昭和十七年八月十四日、七十三歳でこの世を去った。
「 母の口惜しさは、年ごとに強まったように思います 」
と、村田茂子は ある日の つね の思い出を語る。
日支事変が膠着状態に陥った頃だから、昭和十三・四年頃であったろうか。
ある日、後続の妃殿下が伊勢神宮にお詣りになった。
婦人会の幹部であった茂子は、奉迎準備にかり出されていたが、
おりから遊びに来ていた母を、一目拝ませてやろうと、飛んで帰った。
「 妃殿下がもうすぐお着きですよ、一緒に拝みましょう 」
と、声をかけたが、つね は 返事をしない。
二度目の催促に
「 わしゃ行かん、見たくもない 」
と、顔を真赤にして吐きすてるように言った。
つね は 若い時から皇室崇敬の心は篤く、
新聞に出た皇室の写真すら、下におかないように子供たちに言い聞かせていた。
その昔の母の姿を思い浮べ、茂子は 今更のように、
母の心の傷跡の深さを知った。

須山幸雄著  西田税 二・二六への軌跡 から