緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

鈴木静一作曲「桜幻想曲」を聴く

2020-03-22 21:37:56 | マンドリン合奏
桜が見ごろを迎えている。
桜と言えば花見である。
今は花見と言えば酒盛りだが、昔は純粋に桜を鑑賞するついでに、茶菓子を楽しむ程度だったに違いない。

花見と言えばあまりいい思い出はない。
初めての花見は大学3年生の時のゼミの花見だった。
北海道某地方都市にある大学近くで、5月半ばに、もうとっくに桜は散ってしまっているのに花見をしようということになって、暗かったゼミの先生と、ゼミ生15人くらいが集まってお昼ごろから酒盛りを始めた。
今まで経験したなかでこれほどすさまじかった酒盛りは無い。
とにかく殆どのゼミ生が大五郎とかいったか、タンクのようなポリ瓶に入った焼酎をがぶ飲みして、皆などんちゃん騒ぎになった。

そして夕方になって4年生の1人(スキー部所属)が酔いつぶれてゲロを吐いた。
そしてそれに連鎖するように次々と酔いつぶれるヤツが続出し、私も腰が立たなくなるほどになってしまった。
それからはここに書けないほどの地獄が待ち受けていた。

学生時代、マンドリンクラブ以外に学内のある団体(音楽とは無関係)に所属していたが、その団体の飲み会は恐ろしかった。
ビール1リットルは入るくらいの大ジョッキを2時間の間で13杯も飲んでも平気な先輩が何人かいた。
上級生だからと言って容赦は無かった。
日本酒を入れたコップを1年生の前に1つ、2年生又は3年生の前に5つ置いて、1年生が日本酒コップ1杯飲み干すまでに、上級生は5杯全て飲み干さなければペナルティーが与えられた。
(これってはっきり言って犯罪だ)。

私の学生時代に、酒を飲んで気持ちよく眠りについたことなど記憶に無い。
たいていは、深夜下宿あるいはアパートに帰ってから、夜が明けるまでずっと、おぞましい異臭のする汲み取り便所に顔をつっこんでいなければならなかった。

そういえば先日、母校マンドリンクラブで帰山栄治の曲を過去の定演でどのくらいやったのか調べるために、2年前に開催された50周年記念演奏会でもらった冊子を見ていたら、私の1つ上の先輩で、現OB・OG会長をやっているOさんの投稿に、学生時代の母校のある町や母校の状況を示すものとして、こんなことが書かれていた。

「斜陽の街と言われて久しく、〇〇〇〇(今は金儲けのための観光地となってしまった場所)埋立論争が続いて全く観光地化していなかった。〇〇〇大(母校の名前)は、全国で飲酒率や留年率が高い大学として時折週刊誌に載ることがあった。」

学生食堂で昼飯を食べていたら、「昨日のグリークラブの新歓コンパ、救急車5台出たんだってな」なんていう会話が平気で聴こえてくるような大学だった。
伝統のある大学だったが、当時のこの大学はちょっと特異な感じがした(田舎に位置していたことも関係あるのか)。
(「飲酒率や留年率が高い」、これって自分のこと? でも同期の正指揮者やコンマスも同じ時期に留年したよな)

社会人になってからも30過ぎぐらいまでは、ときに無茶飲みしたこともあった。
これも忘れられない思い出なのだが、工場勤務になってしばらく経ってからの春のある日、職場(生産管理部)の若い人たちが集まって花見をしようということになって、工場の敷地内(当時は近隣住民からも評判になるほど桜の木がたくさんあった)で土曜日の午後に酒盛りを始めたのである。
そして私は調子に乗って、新潟出身の後輩が実家から送ってもらったという高級酒「越乃寒梅」(当時はなかなか入手できなかった)の一升瓶を、あろうことにも瓶をくるくる回しながらラッパ飲みし、一度にその高級酒の大半を一人で飲み干してしまったのである。
そしてあの学生時代のゼミの花見のときのように酔いつぶれ、同期の工程管理担当のヤツと10歳くらい年下の女性社員に付き添われて、その女性社員の車で自宅まで運ばれる始末となってしまった。
数年後、その同期と女性社員が付き合っているといううわさを聞き、結局結婚したのだが、なるほどこのときすでにできていたのか、と思ったものである(酔いつぶれた時、何でこの2人なんだ?と不思議に感じた)。

前置きが、それも汚い話が長くなってしまったが、今日、鈴木静一の「桜幻想曲」を聴いた。
鈴木静一の中でもマイナーな曲であるが、ギターパートの音が効果的に用いられた編曲となっている。
鈴木静一はギターアンサンブルのための曲も書いているが、ギターの奏法を熟知しており、ギターの音が無理なく最大限の効果が現れるような音の配置や運指を採用している。
この曲の冒頭からしばらくして現れるギターのアルペジオがそれを端的に示している。
(横尾幸弘編曲の「さくら変奏曲」の第2変奏を彷彿させる)

Youtubeでこの曲を探したが、1つだけあった。
しかしフル編成ではなく、1stマンドリン、2ndマンドリン、ギターの3人の小編成だ。

"Sakura Fantasia"  桜幻想曲(鈴木静一)マンドリン・クロスセクション


あと鈴木静一ではないが、縄田政次作曲のマンドリン独奏曲があった。
(演奏者は榊原喜三氏)
縄田政次氏はギター界でも知られている(私より上の世代の方はご存知かと思う。全音の「カルカッシギター教則本」など著書多数有り)。
マンドリン1台でここまで表現する奏法を採用した曲はあまりないように思う。

榊原喜三 マンドリン 幻想曲《桜》/縄田政次


【追記202003232156】

ギター曲「さくら変奏曲」の作者は横尾幸弘氏でした。訂正します。
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帰山栄治作曲 「舞踊のための音楽 『風紋』」を聴く

2020-03-21 22:43:02 | マンドリン合奏
帰山栄治氏の珍しい録音を見つけた。
Youtubeで3年くらい前に見つけたものであるが、マンドリン合奏曲ではない。
恐らく2本の尺八の重奏だ。

舞踊のための音楽 「風紋」


帰山栄治氏のマンドリン合奏曲とはかなり趣きが異なる曲だ。
基本的に日本の伝統音楽形式に根ざしているが、かなり激しく、強い感情がはきだされる箇所が随所にある。

1970年代から1985年前半の学生マンドリンオーケストラ全盛期の時代に、鈴木静一、藤掛廣幸、熊谷賢一といった作曲家と並んで、頻度は少なかったが演奏されたのが帰山栄治の曲だった。
私の学生時代では、「歴史的序曲第2番」を弾いた。

今現在、帰山栄治の曲を、学生マンドリンクラブや社会人マンドリンクラブが演奏する機会はほとんどないように思える。
昨年では社会人マンドリン団体のコンコルディアの定期演奏会で、「マンドリンオーケストラの為の『劫』」という曲を生演奏で聴いたくらいだ。

私の母校の定期演奏会で帰山栄治氏のオリジナル曲をどれだけ演奏したのか調べてみた(編曲ものは除く)。

1981年 「ハ短調の序曲」
1985年 「歴史的序曲第2番」
1986年 「"CAPRICCIO" For Mandolin Orchestra」
1986年 「ハ短調の序曲」
1988年 「歴史的序曲第4番」

1990年代以降は一切演奏されていない。

もしかして定期演奏会以外の演奏会でも取り上げたかもしれないが、それにしても少ない。
帰山栄治氏の曲が敬遠された理由は何だろう。
恐らく音楽的にも技巧的にもとても難解で、曲を仕上げるのが大変なことや、聴き手に理解を求めるのに限界を感じたためだと思われる。

「風紋」と出会ったのと同じ頃に、「まわき」というマンドリンオーケストラ曲に出会った。
帰山栄治氏の曲を全て聴いたわけではないが、この曲は氏のマンドリンオーケストラ曲の中では最も好きだ。
最近では、所属する社会人マンドリンクラブの方から教えてもらった「うねり」という曲を聴き始めているが、帰山栄治氏の曲というのは何度も何度も聴き込まないとその輪郭に触れることすらできない。
曲の真価に気付くには何年も聴き込まなければならないだろうし、テーマに関連する事項の調査、研究も要求される。

しかし帰山栄治氏の曲は、演奏団体を成長させるということは間違いないと思う。
その意味でも、帰山栄治氏の曲を演奏会に取り上げることは大いに意義のあるものだと思っている。

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静かな夜に(4)-日本旋法によるピアノ曲-

2020-03-20 21:45:52 | ピアノ
日本的情緒を最も感じ取れるピアノ曲がある。
伊福部昭(1914-2006)の処女作といわれている「ピアノ組曲」(1933年)だ。
現在ではだいぶ後になって管弦楽に編曲され「日本組曲」という名前に替わって知られるようになったが、原曲はピアノ独奏曲である。
このピアノ組曲は伊福部昭が大学時代に作曲されたが、のちにヴェネツィア国際現代音楽祭に入選したという。

この曲を初めて聴いたのは、2000年3月、「アレクサンドル・チェレプニンをめぐる作曲家たち」と題する演奏会だった。
この演奏会ではチェレプニンゆかりの様々な作曲家の曲が披露されたが、最も印象に残った曲が伊福部昭の「ピアノ組曲」だった。

そもそも伊福部昭の名前を知ったのはいつ頃だっただろう。
名前だけならば、ギターを始めたばかりだった中学1年生のときだ。
親父に頼んで札幌で買ってきてもらった、ギター独習者用の教則本、それは全音から出ていたものだったが、その教則本の巻末の出版案内に、伊福部昭のギター独奏曲である、「古代日本旋法による蹈歌」と「箜篌歌」(ともに1967年作曲)が載っており、、「海外でも注目される作品であろう」とコメントされているを見て、一体どんな曲なんだろうと思っていたのである。
しかしこの当時、この曲の楽譜は絶版、「古代日本旋法による蹈歌」は阿部保夫が既に録音していたが既に廃盤、レコードが札幌に売っているはずもなかった。
それからはしばらく伊福部昭のことは全く忘れてしまっていた。
伊福部昭のことを思い出させたの大学2年生のときだった。
当時私は大学のマンドリンクラブでギターパートをやっていたのだが、この年の秋の定期演奏会のメイン曲である鈴木静一の「交響譚詩 火の山」を練習していた。
この話は今まで何度も記事に書いたからしつこいと思われるかもしれないが、ある日、古い木造の部室のある建物の廊下を歩いていた時に聴こえてきた、この「火の山」の噴火が終った後の極めて美しいマンドリンの旋律に、今まで感じたことがないような衝撃を受け、それ以来日本の独自の伝統的な民族旋法による音楽に目覚めてしまったのである。
それ以来、この日本古来の民族旋法を用いたギター曲がないかと探し回り、全音から出ていたギターピースから伊福部昭の「ギターのためのトッカータ」と、同じく全音から出ていた阿部保夫編集の曲集から「古代日本旋法による蹈歌」を見つけ出した。





「古代日本旋法による蹈歌」の入った曲集を見つけたときは、まさに奇蹟的だったと思っている(当時既に絶版)。
この時代はインターネットもYoutubeも無かったから、曲を探すのはけっこう大変だった。
「ギターのためのトッカータ」も「古代日本旋法による蹈歌」も録音が無かったから、楽譜だけが頼りだった。
この2曲を、「火の山」を演奏する定期演奏会の練習の休憩時間に弾いたものだった。
「古代日本旋法による蹈歌」は最後まで一応弾けたが、「ギターのためのトッカータ」は難しかった。
そこで「ギターのためのトッカータ」は日本的情緒が感じられる下の写真の部分だけを弾いていた。



この時だったか、「古代日本旋法による蹈歌」の冒頭部を弾いていたときだったか、どちらかだと思うが、ギタートップの3年生のMさんが、伊福部昭のことを知っていて(当時の私は伊福部昭のことは誰も知らないと思っていた)、映画『ゴジラ』の音楽の作曲者であることを教えてくれたのも懐かしい思い出だ。



この「火の山」を練習していた頃が、大学のマンドリンクラブ時代の数多くの練習の中で最も充実していたし、最も幸福感を感じていた。
この頃の記憶もどれよりも強く残っている。
C.O.ラッタの「英雄葬送曲」も演奏したときだ。
前期の試験を終え、10月から本格練習を始め、11月初めの秋合宿を経て11月下旬の定期演奏会までの北海道の晩秋の美しさと、寒いながらも気持ちのいい日々を過ごしていたことが思い出される。

だいぶ本題からそれたが、この「ピアノ組曲」は、第1曲「盆踊り」、第2曲「七夕」、第3曲「演伶(ながし)」、第4曲「佞武多(ねぶた)」の4曲で構成されるが、最も美しいのは第2曲「七夕」だ。
シンプルで虚飾の全く無い素朴な曲であるが、これほど日本的情緒がかきたてられるピアノ曲はないであろう。
やはりこの曲は管弦楽でなくピアノ独奏の方がいい。

昔の日本人の感性の豊かさ、鋭さにただ驚くばかりだ。
Youtubeで舘野泉のライブ録音が見つかった(以前も記事にしたような)。
何も考えずに、じっとピアノの音に耳を澄まして欲しい。
できれば、静かな夜に、独りで聴き入って欲しい。

館野泉/伊福部昭:七夕




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いよいよレトロマスクの出番か?

2020-03-20 09:22:55 | 健康
新型コロナウィルスの感染がなかなか収束してくれないが、感染予防のマスクのストックが無くなりつつある。
ドラッグストアを通りがかったときに売っていないか覗いてみるのだが、いつも未入荷の張り紙が。

こうなったら、いよいよレトロマスクの出番だな。
10年以上前までだったと思うが、使い捨てマスクが登場するまで、ずっとロングセラーだったのがガーゼマスクだ。





捨てるのがもったいないと思って、とってあったのだ。
使い捨てが無くなったら、これを使うことにしよう。
しかし、このガーゼマスクをしている人を一人も見たことはない。
ちょっと目立つかもしれないが、まあいいか。
洗濯すれば2週間くらいはもつだろう。


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金属の魅力-ブリキ-

2020-03-15 21:00:27 | 金属
今日、車のエンジンオイルを交換したのだが、エンジンオイルの入っている缶の材質が何か調べてみたら、ブリキだった。
ブリキとは、薄鋼板にスズメッキをしたものである。
ちなみに薄鋼板に亜鉛メッキしたものをトタンと言う。
身近なものでは缶詰の缶がブリキで出来ている。
あとは私の子供時代だったが、バスや電車などの乗り物のおもちゃがブリキで成形されたものだった。
最も古い記憶の一つであるが、多分、幼稚園にあがる前だったと記憶しているが、母が機嫌が悪く、兄と私に何か怒っていたことがあった。
何に怒っているのか全く分からず、ポカンとしていたら、母が怒りながらも、いきなりブリキ製のバスのおもちゃを取り出し、それは買ったばかりのものであったが、(本当はあげたくないけど)しょうがないねー、という投げやりの感じで、母はそのバス2台を兄との私の目の前に置いたのである。
私は幼いながらも一瞬その展開に唖然としたようだったが(母がこういうおもちゃを買ってくれることがそうなかったせいもある)、そんなことを深く考える猶予もなく、その突然目の前に差し出されたバスに驚きながらも早速つかんで、畳の床の上に走らせて遊んだのである。
そんな記憶が妙に今でも残っている。

エンジンオイルの缶といえば、家に未開封の20年前のエンジンオイルが置いてある。



何故使わないでそのまま20年も保管していたのか。
恐らく、粘度の高いオイル(10W-40)を買ってしまって自分の車に合わないだろうと考えて使うのを止めてしまったからであろう。もったいない。
API規格が「SL」となっている(今はSNだ)。



今日この20年前に買ったエンジンオイルの缶を見たら、缶の上部が錆びていた。







ずっと屋内に保管していたのに何故錆びてしまったのか。
スズメッキをしているので屋外に放置していなければ錆びるはずはないと思っていた。
屋外であれば、雨風などでメッキが浸食し、メッキが剥がれた部分から鉄が空気に触れて酸化して錆びることは十分に考えられる。
しかし屋内であればメッキが剥がれる原因は思い当たらなかった。
では何故錆びたのか。
考えられるのは、このエンジンオイルを新品で買ったときに、その缶の上部に既に微細なキズが付いていたことだ。
輸送中、あるいは店頭で展示中にわずかな傷が出来、その傷から酸素が入り込んで鉄を錆びつかせたというものだ。

前回の記事で、鉄は実は「錆びたがっている」ということを書いたが、鉄はメッキの下で苦しい思いをしながらじっと耐えていたに違いない。
缶の表面に外部から傷が出来るのを辛抱強く待ち続けていたであろう。
そして何かの拍子に傷が出来るや否や、待っていましたと言わんばかりに酸素を吸い寄せ、鉄鋼材精製の過程で無理やり引き裂かれた酸素と再び結合し、本来の自分の姿(=鉄鉱石)を取り戻したのである。
その結末が上の写真の缶上部に出来た赤錆である。

ちなみに最近かったばかりの缶は銀色の光沢が出ている。



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