緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

エドヴィン・フィッシャー演奏 ベートーヴェン ピアノソナタ第8番「悲愴」を聴く

2016-04-09 22:42:27 | ピアノ
静かな夜に、ベートーヴェン ピアノソナタ第8番「悲愴」を聴いた。
演奏はエドヴィン・フィッシャー(Edwin Fischer, 1886 – 1960)。
「悲愴」は、ベートーヴェンの三大ピアノソナタの一つで、特に第2楽章は誰もが1回は聴いたことのある名曲中の名曲だ。

エドヴィン・フィッシャーといえば一昔前の大ピアニストであり、ギターのアンドレス・セゴビアと同世代の演奏家だ。
エドヴィン・フィッシャーとアンドレス・セゴビアの演奏には共通点を感じる。
彼らは決して楽譜に機械的に忠実に弾こうとはしていない。
1980年代に入って、原典主義というのか、やたら楽譜に機械的に忠実に演奏する動きがギター界に起こったが、この考え方で失ったものは計り知れない。
一言でいえば、聴き手の心に強い感動を引き起こす演奏が影を潜め、音の軽いつまらない演奏が氾濫したことである。
楽譜には作曲者の意図するものはごく僅かしか与えられていない。
巨匠と呼ばれる演奏家は、楽譜を超えて作曲者の魂に触れようとする。
作曲者の人間そのもの、心情、究極的には魂に同化する。
楽譜に書かれていることに、表面的に機械的に忠実に弾こうとする。これは極端な言い方をすれば愚かなことではないか。

エドヴィン・フィッシャーの弾く演奏、特に第2楽章を聴いて欲しい。
人は、会社や学校などで、気持ちに反することを意識することなく強制的にさせられている。
そして心が擦り切れている。
そのような時にこの「悲愴」の第2楽章を是非聴いて欲しい。

しかしベートーヴェンという人物は様々な感情を味わい尽くしたに違いにない。
この第2楽章は一見穏やかに聴こえるが根底には闇の感情が隠れている。
闇と幸福感という感情が同時に流れているから聴き手の心に深いものを残すのである。
エドヴィン・フィッシャーの演奏にはその対比が意識してしていなくても伝わってくる。



【追記20160410】
エドヴィン・フィッシャー以外にもいくつか聴いてみた。
バックハウスやケンプなど有名な巨匠、園田高弘などの演奏も聴いたが、エドヴィン・フィッシャー以外に素晴らしと思ったのは、1959年6月にモスクワで録音されたスヴャトスラフ・リヒテルの演奏、1951年録音のマリヤ・グリンベルクの録音である。
両者ともホールでの録音だと思われるが、ピアノの持つ音の魅力が最大限に表現されている。
最後の和音などは、ピアノの音でありながコントラバスの音のように聴こえた。
演奏者によってテンポや音の強弱の使い方に相違があるのは興味深い。

ベートーヴェンのピアノソナタの名盤紹介の記事が中断してしまっているが、近いうちに再開させたい。


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4 コメント

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Unknown (Tommy)
2016-04-10 11:47:05
いつもご紹介ありがとうございます。
下記のサイトで聴かせていただきました。

<https://www.youtube.com/watch?v=wSCUmAgp4Ms&list=PL4C39B469266B77F9>
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Unknown (緑陽)
2016-04-10 21:34:55
Tommyさん、こんにちは。いつもコメントありがとうございます。
記事で紹介したベートーヴェンのピアノソナタ第8番第2楽章をお聴き下さりありがとうございました。
フィッシャー以外にも、いい演奏はあります。
記事に追記しましたので、参照いただけると幸いです。
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原典主義が失ったもの! (fado)
2016-04-12 21:58:43
 緑陽さんこんばんは、fadoです。
またまた興味深い内容が目に付いたので、投稿させていただきました。
 80年代に現れたバルエコの演奏を賞賛して、某ギター専門誌は、「ギターだからという甘えとは無縁なところにギターを据え、均一な音、云々・・・」などというたわけたことを書いた記事を目にしたとき、私は「ギター音楽の終焉(ギターだけではありませんが)」を感じました。
 セゴビアが示した3弦・4弦で奏でられる、この世の物とは思えぬ美しさを否定するバルエコの演奏に寒気を感じたのは私だけではないと思います。
 そして、私はクラシックのレコードやCDを買うのを止めました。青春時代に聴いていたジャズを聴くようになったのです。私の世代では、このような人が決して少なくないでしょう。クラシック音楽をつまらないものにした罪は大きいものがありますよね。
 私を再びギター音楽に引き戻してくれたのはセゴビアの高弟の松田晃演先生の奏でる音楽でした。
 私の尊敬する松田晃演先生は、「原典主義(楽譜どおり)弾くこと)は、答案用紙を白紙で出すことに等しい」と言っておられます。
 作曲家が楽譜により示した問いに対する解答を演奏者は表現しなければならないということでしょう。
 ポンセやテデスコは自分の作曲した曲をセゴビアが演奏したのを聴いたとき「この曲はこんな曲だったのか」と驚嘆したそうです。
 私は、緑陽さんの意見に100%賛成です。これからも長くこのブログを続けてくださいね。北の都で毎回楽しみに読ませていただきます。また、お身体を大切になさってください。
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Unknown (緑陽)
2016-04-13 00:29:24
fadoさん、こんにちは。コメント下さりありがとうございました。
fadoさんのコメントを読ませていただき、大変勇気づけられました。
感謝の念に堪えません。
思えば1980年代前半の現代ギター誌に、「セゴビアの演奏はもはや古い」とか「自分勝手に曲をつくりあげている」とかいった評論がなされていた記憶があります。
残念ですね。音楽の根本がわかっていれば、こんな言葉が出てくる筈もありません。
私が20代の半ば、バルエコの全盛時代、ある日の深夜にバルエコの録音を聴いたときのその感じがいまだに忘れられません。
曲はブラジル民謡組曲だったのですが、おっしゃるように今まで聴いたことのない冷たさを感じたのです。
何でこのような演奏法が主流になり、セゴビアの演奏スタイルが否定されていくのか。ずっとその時代に釈然としない気持ちが残り続けました。
セゴビアが1987年に死去して数か月後に、fadoさんのように私もクラシックギターを離れたことがあるのです。
私もその頃ジャズに傾倒しました。しかしその期間は1年ほどで終焉し、再びギターに戻りました。
何故ならばセゴビアの録音全集がCDで復刻され、その録音が聴けるようになったからです。
今ではクラシックギターで、どの演奏が素晴らしいかを選別することに迷いはありません。確信を持っています。
-「原典主義(楽譜どおり)弾くこと)は、答案用紙を白紙で出すことに等しい」-
本当にその通りだと思います。
楽譜に書かれた情報は作曲者のその曲に託したものの極く極く一部にしか過ぎないのに、その楽譜に書かれた情報に全て従うべきだと逆に縛りを自ら設けてしまった結果が、昨今の聴き応えのない演奏を生みだしてしまっているのではないかと思うのです。
結局は作曲者の感情を理解できるまで奏者が成熟していなと真の表現は不可能だと思います。
-「作曲家が楽譜により示した問いに対する解答を演奏者は表現しなければならないということでしょう」-
おっしゃるとおりですね。このような教育ばかりしているから、現代の演奏家の多くはコンクールで優勝してもジャンルを超えた多くの音楽ファンを持てる巨匠というべき演奏家に育っていかないのかもしれません。

長文となりましたが、これからもいっそう音楽のたのしみを感じられるよう精進していく所存であります。
貴重なご意見を下さり本当にありがとうございました。
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