緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

クラウディオ・アラウのライブ演奏を聴く(2)

2014-06-21 22:51:30 | ピアノ
雨こそ降らなかったが、すっきりしない天気だ。でも灼熱の太陽が降り注ぐよりはましだ。
先日、ピアノの巨匠、クラウディオ・アラウの1968年のライブ録音の紹介をしたが、今日も彼のライブ録音を紹介したい。
アラウの最盛期の頃の1953年、リストのピアノ協奏曲第2番イ長調のライブ演奏である。



前回の1968年のライブでのアラウの音は多彩で、ピアノから様々な音が聴こえてくる円熟期の演奏であったが、今回の1953年の演奏は音に力がみなぎり、テクニックも完璧に近いほどの演奏である。
古い時代の録音でこもったような音であるが、それにしても素晴らしい音だ。
どんな音であるかは実際にCDで聴いていただくしかないが、生命力があるというのか、聴く人にエネルギーを湧き起こしてくれるような音である。それは演奏が終わった後の聴衆の熱狂ぶりを聴けば分かる。
この協奏曲は超絶技巧の連続はないが、おそらく聴衆は技巧ではなくアラウの音に感動したのではないか。
こんなライブなんて一生に1度聴けるかどうかである。アラウの最盛期に生きていたなら、きっと海外に行ってまでも聴いてみたいと思うだろう。
こういうライブ演奏に出会いたいが現代ではほとんどチャンスはなくなってしまった。
アラウはピアノという楽器から魅力ある最大限の音を引き出すことに人生を賭けた演奏家だと思う。
彼の演奏を聴けばそう思わずにはいられない。ホロヴィッツなどのヴィルトゥオーゾとも違うタイプだ。
楽器から素晴らしい音を引き出すこと自体は多くの演奏家が努力してきたことだ。
ギターでいうと1980年代以降、新しい音を引き出すためにそれまでとは異なる技法が出現し、今日までスタンダードな音の出し方として定着したが、成功したとは思わない。
均質で粒の揃った、軽い音による演奏が主流となったが、私にとってはつまらない音楽となってしまった。
しかし豪快な力強いタッチで弾けば聴き手を感動させることができると考えるのは短絡的だし間違っている。
コンクールで豪快な派手な音で演奏して優勝することもあるが、じっくり何度も聴きたいような音楽ではないと思った。
楽器から素晴らしい音を弾き出すためには少なくても3つのことが必要だと思う。1つは音楽での「音」が人間の感情から発したものであることが自らの人生体験により心底理解できており、、その感情を楽器を媒体として聴き手に伝達することこそが自分の使命だと感じていること、2つ目は、その楽器の音が自分に感性に最も合致していること、3つ目は高い音楽教養に裏付けられていること。
少し立派な言い方になってしまったが、要は音楽の中には作った人の生々しい感情が流れていることがあり、その感情を感じ取れる能力が必要だと思うのである。
例えばリストのピアノソナタロ短調という曲がある。このリストのピアノ曲を聴くと、作曲者の生々しいどろどろとした感情が流れていることがわかる。このような曲をみかけきれいな均質な音で非の打ち所がない演奏で聴かされてもしらけてしまう。どんなに名の知れた演奏家であってもちゃちに聴こえる。時に均質な音が汚く聴こえる。作曲者の感情が本当に分かっていないから、このような演奏になるのではないか。
だからと言って大げさに感情的に弾けばいいというものではない。このような大げさな演奏は曲がわかっているようでわかっていないと思う。結局、作曲者が何を感じて、どんな思いでこの曲を作ったのかが自分の感情として理解できればおのずと楽器から素晴らしい音を引き出すことになるのではないかと思う。
アラウの演奏を聴くにつれその感じ方は強まる。その演奏には高い音楽的教養の積み重ねが土台になっていることは言うまでもない。
いつか紹介したアンドレス・セゴビアの弾くポンセのソナタ・ロマンティカの録音を聴くと、作曲者の感情の流れとセゴビアの感情の流れが完全に同化してしていることに気付き、これこそ真の名演だと感じたことがある。神業としか思えない精神の領域で演奏していると思った。
チェロの巨匠ピエール・フルニエはセゴビアの弾くギターの音にいたく感動し、セゴビアから多くのものを学んだと言われている。
ギターという楽器からどういう音を引き出したらよいのか。先に述べた均一な音を求めるアプローチもあるが、私はクラウディオ・アラウなどの数名のピアノの巨匠の演奏からその答えを引き出せるのではないかと思っている。
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