緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

新聞を読んで思うこと(8)

2019-08-25 20:33:14 | 時事
久しぶりに時事について書きたくなった。
5年くらい前から写真のようなスクラップ帖に新聞の切り抜きを貼っている。





切り抜きを貼ったはいいが、読み返すことは殆どない(では何のためにスクラップしてるの?)。

最近増えてきた記事は、いじめとか引きこもりだ。
この2つは因果関係がある。
いじめというものはいつの時代にも、どこに行ってもあるものだ。
人間であるがゆえの宿命だと言える。
しかし、いじめは昔は今に比べて多くは無かった。
私の経験からいうと、私が小学校~高等学校時代には、いやがらせが2、3あったものの、いじめと言えるものは無かった。
幸運だったと言える。
今私が中学生だとしたら、生きていけないかもしれない。
そのくらい今の子供社会はやっていくのが難しくなってきている。


いやがらせで記憶に残っているのは、高校時代。
ものすごく嫌な学校だったのだが、私は嫌な学校生活から逃避するために勉強ばかりしていた。
夜中の3時、4時まで勉強することが日常であった。
そのせいか、当時私は貧血気味で青い顔をしていた。
高校3年生のときだったと思う。
体育の授業で、中距離マラソンがあり、普段勉強ばかりして寝不足だった私は、その体育の終了後教室に戻ったとき、貧血を起こし気分が悪くなってしまった。
そして机に頭を乗せて気分の悪さが収まるのを待っていた。
すると、嫌いだった野球部のヤツが私のその姿を見て「顔が真っ青だせ。こいつ吐くんでないか」と言ったのである。
正に今にも吐きそうだった私はそいつに対し何も言い返せなかった。
同じく高校3年生の時。
トイレでタバコを吸って見つかり停学となり、修学旅行に行けなくなった同じクラスのヤツが、体育の授業を欠席した際に、私が居ないのをいいことに、私の大事な革製の筆箱の隙間に東鳩のココナッツビスケットをつっこんだのである。
(あとでそいつが犯人であることが分かった)。

これがいじめと言えるかどうか分からないが、とにかく当時の私はこういうことをされても直接抗議できなかった。
また嫌な学校だったので、よく学校を休んだ。
3年生のとき担任の先生から親に電話があり、「あなたの息子は出席日数が足りないのでこのままでは卒業できません。あと1日も休まないようにして下さい。」と言われた。
(これは後で人づてで聞いた話であるが、先の「こいつ吐くんじゃないか」と言った野球部のヤツが、卒業後1年目の同窓会で(私は当然出席しなかった)、私に心無い言葉を浴びせたことを後悔している、悪かったと言ったということを聞いた。)

かろうじて大学に現役で入り、心機一転、高校時代に出来なかったことをしようとサークル活動やアルバイトに精を出すようになった。
マンドリンクラブに入ったのもその一つだ。
並行してある学内の別の団体の活動も行った。
しかしその団体で、私はその後の長い人生で苦しまなければならなくなった辛い体験をした。
詳細は避けるが、この体験をきっかけに私は精神的に転落の人生を歩むようになっていった。

運よく就職したが、学生時代よりも恐ろしい現実が待ち受けていた。
思い出したくないほどの出来事だったが、私は廃人のようになってしまい、仕事が殆ど出来なくなってしまった。
しかし今考えると驚くべきことなのであるが、私は会社を辞めたり休職しなかったのである。
というかそういう行動に出るエネルギーすら無かった。
死に最も近かった。

当然閑職に追いやられ、仕事の殆ど無い時期を数年間過ごすはめになった。
転機は工場に転勤したときだった。
工場に転勤してもすぐにはろくな仕事しか与えられなかった。
転勤して1年くらいだったであろうか。
年末の納会が終り、資材部の部長に「お世話になりました」と挨拶したら、「ん?。君には何もお世話なんかしていないよ」と言われた。
そしてその後、半年くらい経ったときだったであろうか。
生産管理部長から呼び出されて何を言われるかと思ったら、「〇〇君(私のこと)は努力が足りないね。田舎に帰って農家でもやった方がいいよ」と言われたのである。
もう私は限界を超えていた。
その頃私は、この会社に見切りをつけて転職しようと思っていた。
もうどうでもいいと思った。開き直った。
部長に言われた直後、私は席に戻るや否や、自分の机の引き出しを引き出すや否や、渾身の力をこめて、思いっきり大音量をたてて叩きつけたのである。
その部長の席から数メートルしか離れていない位置である。
その時は周りは騒然となり、別室の部署からも何事かと人が様子を見に来たぐらいだった。

会社を辞めようと思っていたくらいなので左遷も覚悟していた。不思議と冷静だった。
完全に捨て身だった。
その後どうなったか。
私は捨て身だったので、その後もどうでもいいと思っていた。
その後、驚くことにその生産管理部長が私に対する態度を変えたのだ。
どんな風に変えたのか。
それは私に嫌がらせをするのではなく、何と、いろいろ仕事を個人的に直接依頼するようになったのだ。
私の直属の課長を飛び越してである。
ある時、工場でプロジェクトチームが立ち上がったとき、その生産管理部長は私をメンバーに抜擢した。
その時私の直属の課長(すごくずるくて意地悪な嫌なヤツだったが)が、このチームのメンバーとしては〇〇君(私のこと)ではなくて△△君の方が適任だと思いますが、と私の目の前で部長に進言したのである。
しかしその生産管理部長は「いや、〇〇君でないとダメだ」と言って課長の進言を退けた。

この体験が私を変えた。
今まで嫌なことをされても何も出来なかった私が、明確に反撃できるようになっていった。
そして仕事も物凄くやりだした。
会社を殆ど休まなくなった。
これ以降、私は会社を殆ど休んでいない。
それだけでなく休日出勤も多々やった。
ちなみにその生産管理部長は取締役まで登りつめ退職した。

いじめる人間に対しては、捨て身で臨むときが必ずやってくる。
捨て身で臨んだ結果がどうなるかかは分からない。𠮷とでるか凶とでるか。
しかし捨て身で臨むということは、自分の人生にとって最後の手段に出たということだ。
そこには人がどう思うなどといったものから超越した、真の自分の気持ちしかない。

いじめる人間にも2種類ある。
表面的に悪いことを言うが、性根はまっとうなやつ。
他方は、根っから心が腐ったやつ。

いめじに対して、またいじめのはびこる学校に対して、逃げてもいい、なんて無責任なことを言ってはならない。
子供にとって学校は楽しい場所でなければならない。
その楽しい場所であるべきものが、恐ろしい場所になっているのは、いじめられる側の問題ではない。
いじめる生徒や先生を締め出し、再教育すべきなのだ。
いま学校教育界はそういうことをやっていない。
いじめられる側が何で学校から逃げなければならないのだ。
いったん逃げたら再起することは極めて困難だ。
その結果が現在の異常な数の引きこもりだ。
そんな恐ろしい学校なら、行かなくていい、と安易で無責任なことを言った結果だ。

学校から逃げて何が解決できるというのか。
罪悪感で心がぼろぼろになるだけだ。

いじめる人間を締め出すのが本質的な解決だ。もちろんいじめる側の再教育は必須だ。
そのうえでいじめられる人間にも、強くなれるすべを教えていくことが最も大切なことだと思う。
コメント    この記事についてブログを書く
« グラナドス作曲「スペイン舞... | トップ | 追悼 野坂操壽さん »

コメントを投稿

時事」カテゴリの最新記事