緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

新聞を読んで思うこと(6)

2017-09-17 00:14:38 | 時事
購読している新聞で、最近読んだ記事や読者の投稿から感ずることを書いてみたいと思った。
いくつかのテーマで記事にしたい。

1.女尊男卑

購読している新聞の読者投稿覧に「若い世代」というのがあり、小学生の子供から20代前半までの世代の投稿が紹介されている。
この「若い世代」を読むといつも辟易する。なぜならば、いい子ちゃん、優等生のきれいごとのオンパレードだからだ。
まだ小学生なのに、中高年が使う様な言葉を使って表現をする。先生や親に褒めてもらうがためのきれいごとを書く。
こんな投稿を読むとこの子供たちは将来どうなってしまうのだろう、と思ってしまう。
何故こんな新聞に投稿するのか? 普通はしないだろう。もっと外に出て思いっきり遊ぶ方が絶対いいし、その方が健全だ。
家にいて難しいことを考えるより、外の自然の豊かさに触れた方がいい。
なんかこのような子供たちは案外寂しいのではないかと思う。

しかしごく稀に子供らしい正直な意見を目にすることがある。
昨日だったかの記事で、「男が傷つく女尊男卑」というタイトルの中学3年生の投稿があり、面白く読ませてもらった。
この投稿によると、今の時代は行き過ぎた「女尊男卑」が横行していて、「〇〇ハラ」や「痴漢」への対策など本来女性を守るためにできたルールが、だんだんと男性を傷つけ、女性が得をするように変わってきている。だから女性を守るべき法律などは見直すべきだと言う。
これは正直な意見だと思う。
いい子ちゃんは女性の地位をもっと認め、高めるべきだとか、女性に優しい社会の在り方を議論すべきだとか言うだろうが、この投稿者は逆だ。
良くも悪くも、まずは自分の気持ちを正直に飾らず表現することが大切だ。
未熟だと思われはしないか、など気にしなくていい。
どっかからの借り物の意見ほど虚しいものはない。
表面的に紳士的、格調高いことを言っている人が、裏や影で悪事を行っていたり、悪態をついていることは多々あることで、人間は表面の言動だけで評価したり判断できるものではない。

「女尊男卑」という言葉を見て、まず思い浮かぶのは職場の産休育児休暇制度だ。
私が社会人となった30年前に男女雇用機会均等法という法律が施行され、女性の職場における待遇は差別がなくなり、著しく向上した。
30年前は女性が結婚すればまもなく退職するのが一般的であったが、今はそのような事例は皆無に近い。産休育児休暇制度が出来たからだ。
今から20年くらいまで女性が結婚し妊娠すると、この産休育児休暇制度を取得し、この休暇を全て消化した直後に退職するということが横行していた。
つまり復職する意思が無いのに、この休暇制度による金銭的メリットを享受するために利用されていたのだ。
さすがにこれは問題だと感じ、会社の人事担当に何かの機会の折にコメントしたことがあるが、それ以降、このようなケースは無くなった。
ひどいなと思ったのは、昔、勤め先がリストラで早期退職を募っていた頃、産休育児休暇中の女性がその早期退職制度による退職金割増を利用して辞めたことだった。もちろんはなから復職する意思などない。
これにはさすがにあきれた。
大卒で入社しても特に事務系は男と対等な気持ちで仕事をするような人は殆どいない。
結婚後産休育児休暇を取り、復職しても新入社員の時と同じレベルの仕事しかしようとしない。
さらに有給休暇などは全て消化する。
だけど収入は高い。スーパーのパートの5倍以上の収入は得ている。しかも楽で気楽な仕事で。
もちろん女性の中には出産後育児をしながらも男と同等の働きをしている人もごく少数であるがいる。
そして管理職や幹部を目指して頑張っておられる方もいる。
そのような女性は本当に尊敬に値する。
しかし育児と両立させるため、仕事のレベルやボリュームが上がらない、逆に落ちるのであれば、もっと給料を下げるべきなのだ。パートや契約社員と同レベルでいい。
現実にはその程度しか仕事をしていないのだから。
その分、サービス残業をしている時間外手当の一切出ない管理職に回した方が、よっぽど士気が上がる。
「女尊男卑」という言葉をワープロで変換しようとすると、「女尊」は変換されたが「男卑」は返還されなかった。
男はどんな不公平、不利益な状況にあっても、不平不満を言わず、顔に出すものではない、ということを暗黙に美徳としているように感じる。
私は長い間殆ど仕事を休んでいないし、時間外勤務もたくさんしているが、男が女よりも不利益な待遇、処遇を現実にされている事実は多々あるし、それを美徳とやらで我慢するのは偽善的だと思う。

2.ハイビーム

職場まで車通勤しているが、この1年くらい夜間の対向車がヘッドライトをハイビーム(上向き照射)にしているのをかなり頻繁に目にするようになった。
今日の新聞の読者投稿覧で「ハイビーム 歩行者もまぶしい」と題する投稿を読んだ。
この投稿によると、警察が車のヘッドライトを原則的にハイビームにすることを強く推奨するようになったという。
そういえば昨年の新聞でそんな記事が載っていたのを思い出した。
理由は、ヘッドライトをロービームにすると、前を歩いていたり自転車に乗っている人に気付くのが遅れ、取り返しのつかない事故につながるからというものだったと思う。
投稿によると、ロービームは交通量の多い場所で使用する、と限定的な扱いだ。
この投稿者は「歩行時にハイビームを当てられると、まぶしくて路面や周囲が見えず危ない。仕方なく手で光を遮っていた時、横道から走って来た自転車に気付くのが遅れてぶつかりそうになった経験もある」と言っている。
私も同じ経験があり、会社の駐車場までの往来の少ない通りを歩く時に時々ハイビームを当てられ、その光がまぶしくて、運転者に気付いてもらうために顔の上部に手を当てて歩くことにしている。
往来の少ない住宅地の通りは大抵30~40km制限であり、街灯もあるのでハイビームなど必要ない。ロービームで十分な明るさが得られる。
30~40km制限の通りでハイビームが仮に必要だとしたら、80km超の速度で走行する時だけであろう。
制限速度並で走行するのであればハイビームなど必要ない。
まして最近の車のヘッドライトは過剰なほど明るい光を出すものが殆どであり、私の車のようにオレンジに近い優しい光を出す車は少数派となった。
街灯の一切無い山道でもハイビームは危険であろう。
ハイビームを当てられた対向車が視覚を遮られて崖から転落する危険も考えられる。
ハイビームを頻繁に使用する人の中には、対向車が来てもロービームにしない人もいる。
大抵はハイビームにしていることを忘れている。また対向車には気を使っても歩行者には全く注意を払わずハイビームのままにする人もいる。
ロービームによる事故が多くなったのは、ロービームが原因ではなく、スピードの出し過ぎである。あるいはスマホなどによるわき見運転であろう。
ハイービームによる運転はむしろ事故を増発させる。

あと車を運転していて気になるのは、ゆるやかなカーブで対向車が来ているにもかかわらず、センターラインをはみ出してくる車が多いことだ。
ゆるやかなカーブでセンターラインを超えて走行する理由はもちろん、スピードを落とさずに、なるべく直線走行したいからだ。
このような車は、対向車が来てもセンターラインの内側に入ろうとしない。
対向車が避けてくれるのが当たり前だと思っているようだ。
これも危険な走行のひとつだ。

3.政治家への不平不満

投稿記事で最も多いのは、主に年配者による政治家批判である。
最も多いのは安倍首相や失言した大臣やスキャンダルを起こした議員に対するものだ。
ここぞとばかりに、あなたはけしからん、こうあるべきだと、居丈高な表現で責め立てる。
今や安倍首相は最も安全な怒りの矛先であろう。
このような投稿者は北朝鮮やテロの首謀者には決して怒りを表現しない。
数か月前だったか、加計問題だったかで国会の機能が停滞しているのを見かねて、女子高校生がこんなスキャンダルの解明に国会での貴重な時間を費やすよりも、貧困対策など他にもっと重要なことがあり、そのようなことに政治家は対応すべきだ、と投稿したら、しばらくして年長者が、それは間違っていると、たしなめるような意見の投稿をしてきたのを読んだ。
これはいささか残念なことだ。私はこの女子高校生の気持ちの方が率直で本物だと思う。
今の日本は国の借金が1000兆円を越えており、世界トップの借金大国である。
この財政危機をこれからどうやって乗り切っていくのか。
近い将来、財政が破たんするリスクは非常に大きい。
これは多くの経済アナリストが警告していることでもある。
アベノニクスの第3の矢の施策も立ち遅れている。
日本の将来を中長期的に考えて、政府や政治家に働きかけていく必要があるのではないか。
例えば具体的には高校や大学の授業料無償化よりも、もっと将来の技術大国を目指した、研究開発のための支出増や、シルバー世代を活用した若者への技能の提供、教育に力を入れた方がよっぽどいい。
授業料無償化は短期的に家計を助けても、長期的にみれば国力の弱体化につながる。

政治家の失言にこれでもかというくらい過剰な批判を書く裏には、その人の日常の癒し難い持続的な怒りや不満が透けて見える。
投稿はその感情の放出弁の役割をしていることになる。国の首相に一段上から物を言う自分に価値を感じることが目的であることに案外気付いていないのかもしれない。
もちろん誰にだって、私にだって、理不尽なことに対する怒りを感じたり、或る程度の虚栄心はあるものであるが、過剰な批判的なものの言い方をする人には自分の心の解決が真の動機になっていると感じられることがある。
デモなどの抗議活動もその何割かは、抗議内容の実現よりも自分の心の問題解決を隠れた動機にしていると感じるものがある。

4.孤独死

今日の夕刊に、孤独死した人の部屋のミニュチュア(模型)を再現した人の紹介記事が載っていた。
ゴミに埋もれ、浴槽で亡くなったために赤いお湯があふれた浴槽のミニチュア、布団が体液で黒く染まった和室など。
かなり不気味であるが、この記事で思い出したのは、以前住んでいた公団で斜め下の階に住んでいた中年男性が孤独死したことだった。
夜仕事が終わり帰宅する際に、公団の階段を上っていくと卵の腐ったような異臭がするのに気付いた。
季節は2月ごろの真冬だった思う。
その異臭は数日後しなくなったが、その異臭がした部屋の窓が真冬なのにも関わらず全開しているのを不思議に思った。
その後、その部屋の住人が孤独死したことが分かった。
その時、この住人の死因がその部屋のすぐ上の階の住人に原因があるとすぐに思いついた。
この出来事が起こる半年くらい前に、この亡くなった住人のすぐ上の階、すなわち私の部屋の向かいの部屋にインド人のような外国人が住み始めた。
このインド人が引っ越してきてからまもなく、夜中の1時なのに掃除機をかけて床を思いっきりこすったり、小さな子供を部屋に連れてきて、夜中に思いっきり走り回らせたりして、大きな騒音が聴こえてきた。
何と非常識な住人だと思ったが、このような非常識な行動の目的が推測ではあるが、下の亡くなった住人に対するものであったと直感した。
なぜならば下の住人が亡くなってから、向かいのインド人の部屋から騒音がしなくなったからだ。
亡くなった住人が、このインド人が入る前の住人に以前、それはかなり前のことだったが、騒音の苦情を言っているのを聞いたことがあった。
恐らくではあるが、インド人に対し前の住人に対するのと同じように苦情を言いに行ったのであろう。
それに腹を立てたインド人が真夜中に壮絶とも言える騒音を床に対してたてていたと考えられる。
そしてこの常軌を逸した騒音に耐え切れず、心臓麻痺か何かで亡くなったのだと思う。
これが真実ならば、いや恐らく限りなく真実に近いと思うが、殺人と言ってもいいであろう。

私もその公団に住んでいた時、帰宅直後に下の住人から水が漏れていると言われて、天井を見たら水の跡がついており、その下の床を見たら水びだしになっていたので洗濯機からの水漏れに違いないと思い、すぐに上の階の住人に確認しに行ったら、そんなことはしていないと言う。
しかしどう考えても私自身はその日不在だったわけだし、天井から水が漏れている形跡がある以上、上の住人の水漏れであることは疑いの余地は無かった。
この直後、上の住人から床に大きな騒音をたてられた。
恐らく腹いせでやったのであろう。
人間の普段表に見せない悪を見せつけられた思いだ。

先の孤独死した住人は、私の車と色違いの同じ軽の四輪駆動車、2サイクルエンジン搭載の車に乗っていて、その車を大事にしていた。
私の車を見て関心を抱いているようだったが、物静かなおとなしい方だった。
いつも一人で寂しそうな方だった。
しかし部屋はゴミ屋敷ではなく、とても綺麗にしていたのをドアのすきまから見えていたのが思い出される。
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