「Счастливо!」(シスリーバ!)
マイミクmica殿の日記の標題。
ロシア語で「お幸せに!」「頑張ってね!」という意味らしい。
モスクワに留学していたmica殿はロシア語が堪能だ。
ロシア人とロシア語で喧嘩をしたバイタリティのある友達である。
彼女とは小学3年生のとき、2年間同じクラスになった。
あのクラスのときの友達でマイミクが、彼女を含めて3人もいる。
クラス45人の内、3人。
これって高い確率ではないだろうか。
小学3年生になったときのことは、いまだに明確に記憶している。
理科の授業で、でアブラナの花を解体したこと。
国語の授業で、「野ばら(小川未明)」を習ったこと。
教室が2階になり、窓からの眺めが良くなったこと。
校長先生が始業式で、「やる気、がまん、思いやり」の3つの種をくださり、「心の中にそれぞれの花を咲かせてください」と言ったこと。
なんでこんなにインパクトがあるのだろうか…あの春の日。
突き詰めて考えてみると、一つの要因が思い浮かぶ。
3年生になったとき、あることを担任が宣告してきたんである。
その担任の先生は女性で、明るく快活で、体育会系であった。
彼女は言った。
「今日から給食を全部食べないと、クラス全員、昼休みは無し」
と。
今でこそ、「きのこ類」「刺身」「鶏肉」「鱧」を好きでないなぁと思いつつも辛うじて食べられる私だが、当時は白米、パン、ミートソースしか食べられない偏食家の女児であった。
そんな私に突きつけられた宣告は、その後の人生に大きな陰を残すことになった。
明日から学校に行くのをやめようと真剣に思った。
嫌な予感は的中した。
特にほうれん草のソテーと卵焼きがダメだった。
いずれも変な臭いが着いていたんである。
表現するならば、救急箱の臭い。
一口咀嚼をしようものならば、必ず吐きそうになった。
私が食べ終えるまで、遊び盛りの男子は昼休みを取り上げられて小さな声で囁くのである。
「あーあ。誰かさんのせいで、今日もサッカーできない」
と。
嘔吐を抑えようと涙目になる私は、よく泣いたもんだ。
5年生6年生、そして中学時代の担任の先生はそんなことを強制しなかった。
あの過酷な3年生、4年生の給食時間。
意味があったのだろうか?と時々思う。
そりゃ、世界には貧困が原因で、毎日食べることができない人がたくさんいることも知っている。
だけれども、それが私にどう因果するのだろうか?という答えを、大人は教えてくれなかった。
ただ、嘔吐を堪える涙の味だけを私に残した。
あれから22年が経過した。
私は毎日好きなものを好きなだけ食べる生活をしている。
好き嫌いを言ったって誰も何も言わない。
刺身盛に手を付けずに、飲み会で損するときはあるけれども。
今の方が幸せである。
あの頃の自分に言いたい。
「Счастливо!」
マイミクmica殿の日記の標題。
ロシア語で「お幸せに!」「頑張ってね!」という意味らしい。
モスクワに留学していたmica殿はロシア語が堪能だ。
ロシア人とロシア語で喧嘩をしたバイタリティのある友達である。
彼女とは小学3年生のとき、2年間同じクラスになった。
あのクラスのときの友達でマイミクが、彼女を含めて3人もいる。
クラス45人の内、3人。
これって高い確率ではないだろうか。
小学3年生になったときのことは、いまだに明確に記憶している。
理科の授業で、でアブラナの花を解体したこと。
国語の授業で、「野ばら(小川未明)」を習ったこと。
教室が2階になり、窓からの眺めが良くなったこと。
校長先生が始業式で、「やる気、がまん、思いやり」の3つの種をくださり、「心の中にそれぞれの花を咲かせてください」と言ったこと。
なんでこんなにインパクトがあるのだろうか…あの春の日。
突き詰めて考えてみると、一つの要因が思い浮かぶ。
3年生になったとき、あることを担任が宣告してきたんである。
その担任の先生は女性で、明るく快活で、体育会系であった。
彼女は言った。
「今日から給食を全部食べないと、クラス全員、昼休みは無し」
と。
今でこそ、「きのこ類」「刺身」「鶏肉」「鱧」を好きでないなぁと思いつつも辛うじて食べられる私だが、当時は白米、パン、ミートソースしか食べられない偏食家の女児であった。
そんな私に突きつけられた宣告は、その後の人生に大きな陰を残すことになった。
明日から学校に行くのをやめようと真剣に思った。
嫌な予感は的中した。
特にほうれん草のソテーと卵焼きがダメだった。
いずれも変な臭いが着いていたんである。
表現するならば、救急箱の臭い。
一口咀嚼をしようものならば、必ず吐きそうになった。
私が食べ終えるまで、遊び盛りの男子は昼休みを取り上げられて小さな声で囁くのである。
「あーあ。誰かさんのせいで、今日もサッカーできない」
と。
嘔吐を抑えようと涙目になる私は、よく泣いたもんだ。
5年生6年生、そして中学時代の担任の先生はそんなことを強制しなかった。
あの過酷な3年生、4年生の給食時間。
意味があったのだろうか?と時々思う。
そりゃ、世界には貧困が原因で、毎日食べることができない人がたくさんいることも知っている。
だけれども、それが私にどう因果するのだろうか?という答えを、大人は教えてくれなかった。
ただ、嘔吐を堪える涙の味だけを私に残した。
あれから22年が経過した。
私は毎日好きなものを好きなだけ食べる生活をしている。
好き嫌いを言ったって誰も何も言わない。
刺身盛に手を付けずに、飲み会で損するときはあるけれども。
今の方が幸せである。
あの頃の自分に言いたい。
「Счастливо!」