晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

山崎豊子 『沈まぬ太陽』

2010-09-29 | 日本人作家 や
日本のナショナル・フラッグ・キャリアとして、戦後の経済発展
で企業戦士たちを世界中に運んだ、まさに日本の誇り日本航空が、
ついに経営破たんとなり、その経営のずさんさが露呈されました。
しかし、かつては半官半民でその後完全民間とはなったものの、
無計画な空港建設で採算の取れない路線を就航させたりして経営を
圧迫させ続けてきたのは政府の失策であったのですが、運輸省や
国土交通省の責任追及はどこかへ消えてしまいました。

この作品を山崎豊子は昭和の終わりに書き上げ、「腐ったままでこの
会社を放置させたら今に潰れるよ」という警鐘だったのかも知れませんが、
よもや20年後に現実になるとは。

『沈まぬ太陽』は、アフリカ編、御巣鷹山編、会長室編の3部構成と
なっており、第一部のアフリカ編では、国民航空社員の恩地が、
自分の意思とは関係なく組合の委員長にさせられ、それまで「御用組合」
と揶揄されるほど馴れ合いだった経営対組合の構図を壊し、社員の待遇
改善、ひいては空の安全のために奮闘しますが、共産系のレッテルを
貼られたばかりか、組合が崩壊、挙句のはてに報復人事で中近東、
アフリカといった僻地に飛ばされます。

通常、こういった「僻地勤務」は2年で帰国と社内規定では決まっている
のですが、国民航空本社では、新しい組合が組織され、なんとそこには
かつて恩地とともに経営陣と戦った行天の名前があり、この新労組の工作
で僻地をたらい回しさせられ、恩地は社長に直談判するも、社長は社長で
政府官僚からの圧力もあり、帰国させることはできません。

気がつけば10年も僻地勤務となり、わずか2百名ばかり残った旧労組
のために恩地はこの差別に屈することなく国民航空社員として働きます。

ここから第二部の御巣鷹山編となります。
ようやく帰国することになった恩地。その間、母の死に目に立ち会えず、
子どもの不登校などで家庭は崩壊寸前、せっかく帰国したものの、まとも
な仕事は与えてもらえません。
その間、新労組のメンバーは社内で磐石体制を築きます。
そして、1985年8月、国民航空一二三便が、群馬長野県境の山中に
墜落し・・・

読めば読むほど、腐りきった体質に辟易し、怒りをおぼえます。そして、
その犠牲となるのは、「まとも」な社員と、そして一般の乗客なのです。
あの事故は人災だ、という言葉は、未だ心の傷が癒えないでいる遺族
の言い分などではなく、会社が墜落させたのだ、と思えてしまいます。

そして第三部の会長室編。墜落事故の責任で新労組系の社長が辞任し、
新しい社長に、関西の紡績会社の社長が就任します。これは当時の総理
大臣直々の要請で、戦争経験者の社長は「人生二度目の召集」といって
引き受けます。

内情を聞くに、はやくも打ちのめされます。国民航空は社員間の差別待遇
を公然と行い、もはや末期癌の体だったのです。
しかし、引き受けたからには、せめて分裂した労組をまとめあげようと、
かつてアカのレッテルを貼られ、僻地をたらい回しさせられた恩地を社長室
勤務とさせます。
ところがこれを聞いて黙っていないのが新労組の面々。社内はゴタゴタの
メッタメタ、ドロドロのグッチョグチョとなります。
ここで印象に残っているシーン。
会長室の同僚が恩地に、会社にもう1着背広を持ってきたほうがいい、その
上着を自分の椅子にかけておけば、今は恩地が社内にいると思い、その間
自由行動できる、というもの。
恩地は行動を完全に監視させられていたのです。

そして、ラスト。ふたたび恩地の身にありえない処遇が。
しかし、それでは終わりません。やはり、正義はかろうじて生きていた、という
場面があり、なんだかホッとさせられます。

子会社のずさん経営の実態を探りに、恩地はニューヨークへ行き、そのさい、
ブロンクスにある動物園へ行きます。園内には、「この世で最も獰猛で残忍な
動物」として、鏡が置かれているのです。その動物とは、人間。

獰猛で残忍で卑しくて下劣でも、人はなんとか軌道修正をはかりながら前進しな
ければならず、時の流れはその修正を望んでいるはずなのです。そうでなければ
ありとあらゆる理不尽に耐えて生き延びてきた先達たちの苦労は無となってしま
います。
恩地と家族、恩地の理解者、仲間は、絶望の中にともる一筋の光明。

久しぶりに、読み終わって、頭がぐわんぐわんしました。
コメント (2)
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