晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

佐伯泰英 『吉原裏同心(十三)布石』

2020-01-30 | 日本人作家 さ
ものすごく久しぶりに読みました。
どのくらい久しぶりかと調べたら前回つまり十二巻の投稿が二年前の二月。まだ平成ですね。

今までのストーリーをざっと説明しますと、九州の小藩の家臣、神守幹次郎は、幼なじみで上役の妻だった汀女を連れて藩から脱走します。追手から逃れ、行きついた場所は江戸の遊所、吉原。そこで吉原の自治組織(会所)の四郎兵衛に見込まれて夫婦とも吉原のお世話になることに。汀女は書と俳句の先生、幹次郎は奉行所の同心でも解決できない廓内での事件を解決する(裏同心)に。
いろいろと問題解決をしていって吉原会所の信頼も高まります。が、ある事件があって吉原が全焼。しばらくは浅草や深川で仮営業しますが、いよいよ再建・・・

さて、今作のテーマは「札差」。
ひらたくいうと米の仲介業。江戸時代は米本位制でして、お侍さんの給料は米で支給されます。でも江戸も中頃になりますと、貨幣の流通が当たり前になってきてましたので、米をお金に換える必要があります。それを担当していたのが札差。

当然、誰でも自由にやっていい職業ではありません。「株仲間」というカルテルのようなものがありまして、百九人の株仲間によって札差業は独占されていました。
しかし問題が。江戸の物価は上がる一方なのに、武士(旗本・御家人)の扶持米(給料)は変わりませんので、来年の扶持米を担保に借金をします。中には二年三年先の扶持米を担保に、なんて家も。これによって札差は大儲けしますが武士の借金は膨らむ一方。

そこで時の老中、松平定信が行ったのが「札差からの借金すべてチャラにすっからよー」という「棄捐令」。困ったのは札差。札差は遊びを控えます。じつはそういったお大尽の豪遊こそ江戸の経済の末端を支えていたので、世の中は不景気に。武士たちは一時的に楽にはなりますが生活が苦しいのは変わりませんので、借金をしたいのですが札差は「悪いな、他あたってくれよ」と断ります。なりふりかまっていられずに老家臣が店先で札差の番頭に土下座をしたり、浪人を雇ってゆすりたかりで無理やり金を借りてこさせたり、もはや武士の矜持もへったくれもありません。一方、札差も腕っぷしの強い男どもを雇って仁義なき戦い。

はじめこそ、田沼意次の賄賂政治をやめさせた世直しスーパーマン的扱いだった松平定信でしたが、徐々にその場しのぎの改革案で庶民の人気も落ちてきて、
「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」
なんて歌も。

そんな札差百九人のトップである筆頭行司の伊勢亀半右衛門が、吉原の花魁、薄墨を川遊びに誘います。普通は吉原の遊女は外に出てはいけないという厳しい決まりがあるのですが、そこは札差のトップと薄墨太夫、特例中の特例。しかし、この川遊びになぜか幹次郎と汀女の夫婦も誘われます。たんなるボディーガードというわけでもなさそうな、この話にはなにか深いワケでもあるのかなと思っていたところ、汀女がひとりで茶屋に向かっていたところ、知らない男が声をかけてきてきます。その男は札差「香取屋」の大番頭と名乗り、「亭主に(今の暮らしを大切にしろ)と伝えてくれ」と、脅しのような言葉を残して消えます。

香取屋とは、新しく株仲間に入ってきたそうで、ここ十年ほどで勢力を伸ばし、今では(伊勢亀派か香取屋派か)と二分されている状態。
幹次郎は、シリーズにたびたび登場する(身代わりの佐吉)に香取屋を調べてもらうと、香取屋の当主武七は、田沼意次の息のかかった者だという噂があるというのです。

それから、幹次郎のもとに騎馬武者が襲ってきたり、吉原の小見世で「自分は老舗の菓子屋の若旦那だ」という男が遊び代を支払えず、菓子屋に掛け取りに行くと見世にいた男は菓子屋の若旦那ではなく別人で、調べていくとその男は香取屋に出入りしていて捕まえようとしますが行方不明になり、ある日、死体で発見され・・・

そんな香取屋からのあからさまな脅迫もある中、いよいよ川遊び当日。幹次郎と汀女は薄墨太夫をつれて伊勢亀の舟へ。しばらく川を下っていると、槍や刀を持った浪人たちの乗った猪牙舟に周りを囲まれ、さらに火のついた船が迫ってきて・・・

はたして香取屋は田沼派の残党なのか。彼らの目的とは。ここで話は次巻へ。いよいよ次期の札差センターを決める総選挙が行われます。現段階では金に物言わせて香取屋が若干リードの様子・・・

この話とは別に、吉原会所の番方、仙右衛門と幼なじみの女性との恋物語が。

去年の終りぐらいから環境が変わってありがたいことに本をガッツリ読める時間が取れるようになったのはいいのですが、ガッツリ読めることで佐伯泰英さんのような読みやすい本ですとヘタすると読み始めたその日に読み終わってしまうので、本を買う量が増えそう。
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北方謙三 『破軍の星』

2020-01-24 | 日本人作家 か
北方謙三さんの作品を読むのははじめてです。

この作品は歴史小説。北方謙三さんといえば真っ先に浮かぶのはハードボイルドですが、いつからか歴史小説を書くようになったそうな。そういった「カテゴライズ」は売る側や買う側にとっては分かりやすいのですが、当の作家さんにとってはそこらへんは割とどうでもいいのかも。そういやケン・フォレットも「大聖堂」のときに現代ではなく中世というジャンルにした理由を訊かれて「書きたいテーマがあって時代背景をたまたま中世にしただけで深い意味はない」といったようなことを述べられていた記憶が。

歴史小説で多いのが戦国時代と幕末。大河ドラマでもこの2つの時代が圧倒的に多いですよね。ですが『破軍の星』は南北朝。まあぶっちゃけ特に興味をそそらない時代(個人的に)ではあるのですが、日本史的には割と重要なことが起きています。

主人公は北畠顕家。どなた?Who?というレベルだと思いますが、この時代の重要な人物といえば、まず後醍醐天皇。それから足利尊氏。あと楠木正成と新田義貞でしょうか。自分の知識の無さを棚に上げてあれですが、へえ、こんなすごい人がこの時代にいたんだ、というのが読後の感想。

日本初の武家政権、鎌倉幕府が崩壊して、後醍醐天皇は「これからまた天皇が政治を行います」と宣言。これが「建武の新政」。
これにより、陸奥将軍府(陸奥守)、現在の東北地方と北関東エリアの統括マネージャーに就任したのが、北畠親房の長男の顕家。なんと当時16歳。〇〇守という役名はよく武士に用いられますが、この人はれっきとした公家。しかし陸奥守に任命されたからには「これからは武将として生きよう」と誓います。

まだ幼い六の宮(後醍醐天皇の息子、義良親王、のちの後村上天皇)を連れて、赴任地の陸奥、多賀国府へと向かう北畠顕家とその一行。いまは白河のあたり。その隊列を山中から見張る者がいます。そして、攻撃を仕掛けるのです。しかしこの攻撃は相手へ打撃を与えるものではなくて、敵将の力量を確かめるためのもの。

安家太郎と名乗る男とその兄弟は、16歳と聞いていた敵将が「なかなかやる」と分かり、叔父に報告。この「安家一族」とは、陸奥地域の山中に住む、そして山を守る一族。自分たちは武士ではないといいますが、自衛のために戦うことも。

北条の残党を次々と破っていき、陸奥の平定に尽力します。が、中央ではゴタゴタが。後醍醐天皇と足利尊氏との関係悪化は修復不可能レベル。新田義貞と楠木正成に足利討伐の命が下ります。そして顕家のもとにも足利討伐の要請が届きます。が、陸奥平定が優先だと動きません。しかし、足利のホームである関東(鎌倉)と陸奥は隣接しておりそうもいっておられず、顕家は挙兵、西へ向かいます。そしていよいよ直接対決。史実としては「豊島河原の戦い」として伝わっています。この戦いで朝廷軍が勝利し、尊氏は九州に逃げます。

しかし尊氏は息を吹き返し、ふたたび挙兵、京に向かいます。陸奥では問題が山積、そしてなにより朝廷の態度といいますかやり方に顕家はウンザリしてしまい、陸奥に帰ることに。天皇からは「アズスーンアズポッシブルで京に来て尊氏やっつけろや!」と催促。そんな顕家に安家一族の長が「我々には(夢)がある。もしかしたらあなたのような人が来るのを待っていたのかもしれない」と・・・
もともと陸奥地域は蝦夷が住んでいたのですが、朝廷の蝦夷征討(「征伐」と呼んでいた時代もあったそうな)によって日本の一部になります。この場合の日本とは中央つまり朝廷のことですが、しかし征討、征夷大将軍の(征)という字は(不正を武力で正す)という意味がありますが、別に彼らは悪いことはしていません。ただヤマトの言うことを聞かなかったというだけ。果たして安家一族の「夢」とは。顕家に内を託そうというのか。

顕家はいっそのことこのまま陸奥に残りたいのですが、しかし西へと向かうのです・・・

合戦が起きますと、武士たちは食糧確保のために農民から米をもらいます。いやそんな優しい表現ではなく、奪います。合戦に向かう街道筋で顕家が目にしたものは、飢えた農民たち。政(まつりごと)とはだれのためのものなのか。自分らの権力と豪華な生活がしたいための腐った公家どものためなのか。ならば顕家は足利尊氏となんのために戦うのか。

この時代から数百年後、武士による政権は終わり、ふたたび天皇を長とした政治になります。が、いつの世も為政者の都合で苦しむのは最前線の人たちと一般の人たち。

なんといいますか、北畠顕家は生まれた時代間違えたよなあ・・・
ほかの時代に生まれてればきっと日本史上に燦然と輝く人物になったろうに・・・
と、そんなことを言い出したらあの人もこの人もとキリがありません。
やっぱりその時代に生まれるべくして生まれたんですよね。
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藤沢周平 『竹光始末』

2020-01-17 | 日本人作家 は
我が家の書棚に藤沢周平さんの本がじわじわと増えてきました。
「じわじわ」って書くとなんかまるでマイナスなこと(悪いウィルスとか汚染とか借金とか)が増殖していくようなイメージですが「物事がゆっくり確実に進行するさま」という意味で。じっさい、ここのところよく読んでます。

さて『竹光始末』です。短編集です。

みすぼらしい格好の武士と、その家族とみられる妻、ふたりの子。藩の木戸番士に「当城内に柘植八郎左衛門という御方はおられるか」とたずねます。話を聞くと、周旋状を持っているので、仕官を希望して来たということでさっそく柘植の屋敷に向かいますがあいにく多用で留守。後日、その周旋状を見た柘植は「はて、誰だったか・・・」。運悪く、仕官募集はつい先日締め切ったばかり。ところが幾日後、なんと仕官のチャンスが・・・
という表題「竹光始末」。

無役の藩士、馬場作十郎は、妻の小言にうんざりな日々。作十郎は(いちおう)一刀流の師範代という剣の実力なのですが妻は「それが一俵でも足しになるのですか」とにべもありません。ところがある日、家老に呼ばれ、藩で預かっていた他藩の家臣ふたりが逃げたので捕まえてくれと頼まれ・・・
という「恐妻の剣」。

繁盛している太物屋の見習い奉公、直太は、かつては賭場に出入りをするようなワルというか遊び人でしたが、今は足を洗って真面目に奉公しています。が、ここの太物屋の主人は妾宅に入りびたりで、後添えの本妻が可哀想に思います。そればかりか、その本妻の弟がたまに店に来ては売り上げを脅し取っていくので、可哀想に思った直太はその弟のところへ・・・
という「石を抱く」。

版木掘りの磯吉は初めて行った賭場で五十両と大儲けをしてしまいます。おそるおそる帰ると、あとから男がつけてきます。その男はおそらく賭場にいた男。どうにか逃げ切った磯吉ですが、数日後、仕事場の先輩に飲みに誘われるとその先輩が「お前、数日前に柳島の賭場に行ったか?」と・・・
という「冬の終りに」。

弥四郎は、同じ道場仲間の清野の家庭の問題を耳にしますが、本当なのかどうかわかりません。弥四郎と清野は江戸に出府となりますが、ある上役も江戸に行くと分かります。じつはその上役というのが清野の妻とただならぬ関係という噂で・・・
という「乱心」。

三崎甚平の家に、曾我平九郎という男が訪ねていたのですが、思い出せません。が「ああ、あの時の・・・」とようやく思い出し、平九郎は仕官を探しにやって来たとわかるのですが、甚平の家に寝泊まりをし、大飯喰らいで一部屋も占領されていい迷惑で・・・
という「遠方より来る」。

全作品の主人公、悲しいです。哀愁ただよってます。
なんていうんでしょうかね、藤沢周平さんの文章って「ぐいぐい引き込まれる」ようなものでもないし、ストーリー的にも地味っちゃ地味なんですけど、読み終わったら他の作品も読みたくなるというのは、やっぱり、その、「巧い」んでしょうね。
昔のヤクルトスワローズみたいな。
相手チームが恐れるような強さはないけど、負けない。
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寺林峻 『空海 高野開山』

2020-01-10 | 日本人作家 た
あれは2018年ですから2年前、成田山新勝寺が開基1080年で、なんかイベントがあったりして、御開帳があって本堂の前に柱が立っていてヒモが伸びていて、そのヒモの先はご本尊の不動明王の御手に繋がっているとかで、その不動明王はなんと空海作という、まあ本当かどうかは分かりませんが、お参りに行ったときに柱に触ってきました。

「空海」といえば仏教界のスーパースター、山に杖を突いたらそこから温泉が噴き出したという伝説もありますが、温泉の件は、唐に留学中、世界最先端(その当時)の地質学をおそらく学んできていて、そこの地形を見て水脈はある程度は分かっていたのでしょう。それから空海といえば京の都の「東寺」ですが、東寺はあってなぜ西寺は無いのか、雨乞いの対決で西寺の守敏僧都が空海に敗れたために衰退した云々という例の話、あれもおそらく唐で気象学を学んできていて、雨の予測はその当時の日本の誰よりも詳しかったのではないか、とかなんとか。

別にこのブログで空海を貶めようなんて気はまったくございません。

この作品は、空海の人物記ではなく、唐から帰国後、高野山の開山にこぎつけるまでを描いています。もちろんそれまでの経歴、業績の説明もあります。

まず、高野山に真言密教の道場をひらく許可を天皇からいただいて、空海はふたりの弟子を連れて高野山に登ります。ところが、この山は古くから別の神様を祀っており、異国の宗教を持ち込みやがろうとしていると警戒されます。そちらの神様をどかしてまで仏教道場を作るわけではないと住民にきちんと説明してどうにかわかってもらい、道場の建設を手伝ってもらったりしますが、空海は超多忙で京に戻ります。ところが「空海は高野山を捨てて東国の日光という山に新道場を作ろうとしてる」という噂が飛び交います。

ウワサの根拠その1、京に行ってた知り合いから聞いた
ウワサの根拠その2、そもそも帝の許可を得ている(勅令)だったら国からお金が出てもいいのに寄付だけでまかなおうとしている

これらがだんだんと人々に広まって、そのうち山に残った空海の弟子が監禁されることに・・・

最終的に高野山に真言密教の道場、金剛峯寺は完成し、それから千年、21世紀に入っても参拝あるいは観光で大勢の人が訪れています。
「遥かのちの世代まで遺さなければならない」といった空海さん。安心してください、遺っています。

作品中では、空海を、なんていうんでしょう、とっても人間くさく描いています。
空海のお母さんが出てきての母子のやりとりもあったり。
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遠藤周作 『父親』

2020-01-06 | 日本人作家 あ
松の内は7日まででしたっけ、10日でしたっけ。
ま、いずれにせよハッピーニューイヤー。
昨年は当ブログの駄文にお付き合いいただきありがとうございました。また今年もいろいろとよろしくお願いします。

さて、勧められはするんですが読むタイミングを逃してあまり読めずにいて、でもたまたま未読の作品を見かけると「読んでみようかな」と手に取ってしまう作家さんといえば、五木寛之さんと遠藤周作さん(あくまで個人の感想)。

タイトルが『父親』というくらいですから、家族関係のゴタゴタ?と思い表紙の裏のあらすじを読むと恋愛小説っぽくもあるし、なんだかよくわからないけどとりあえず面白そうだな、と。

この物語の時代は1970年代後半から80年代前半くらい。まだバブルには突入してません。化粧品会社に勤める菊次は定年後に京都移住を計画しています。そんな菊次と妻のあいだには娘と息子がおり、娘はスタイリスト会社の社員。この時代にOLって言葉は定着してたんでしょうかね?弟は大学生。

菊次は大学生のときに終戦を迎えた、いわゆる(戦中派)と呼ばれる世代。娘は戦後生まれで「戦後強くなったのは女性と靴下」という言葉が適切かどうかは置いといて、それまでの価値観とは全く違う女性。このふたりのジェネレーションギャップが話の核になるのですが、菊次にとって、会社の部下の言動や娘の言動には「けじめがない」と嘆いています。一方、その部下や娘にとっては「その考え方は古い」。

菊次は新商品開発の担当になったはいいのですがそう簡単にはいきません。さらに菊次にとって、会社での問題よりもさらにヘビーな問題が勃発します。それは、娘の純子の好きになった男というのが、なんと妻子持ちで・・・

純子と不倫関係となった男、宗と菊次は、じつはまったくの赤の他人というわけではなかったところがまたこの問題をややこしくしているわけではありますが、それはさておき、こういうケース、つまり不倫の男側のお決まりのセリフといえば「今は妻とは別居中、近いうちに必ず別れる」。
こんなの戦中派だろうが純情派だろうが「あーこの男ダメだ」と思うのですが、当人の純子からしてみれば(自分の幸せの前に立ちはだかる障壁)ぐらいの感覚で「宗さんは私といるときのほうが幸せだと言ってくれるんだし、だったらそれでいいじゃない、一番大事なのは当人の幸せよ」というスタンス。

菊次たちの世代にとってのプライオリティは「恥ずかしくない生き方」なのですが、菊次の大学の同級生は全員が全員復学できたわけではありません。つまり生きて帰ってこれなかったのです。そんな彼らに今の日本という国は「見せても恥ずかしくない」のか。
ところが純子ら戦後生まれは父親の世代の考え方が分かりません。というより、知ろうとすることを避けているのかもしれません。
と、まあ、そんなこんなで結末は「それみたことか」(オチは書きませんが)になっちゃうわけですが、そこがメインテーマではなく、やれジェネレーションギャップだ新人類だ言われますが、人間そのものがよっぽど変わったわけでもないので、やっぱりやっちゃダメなことはやっちゃダメ。

奈良時代の書簡に「最近の若いやつらの考えてることが分からん」といった文があったとかで、それ以前からもジェネレーションギャップっていうのはおそらくあったわけでして、先日チラッと見たNHKでしたっけ、俳優の香川照之さんの虫はスゴイとかいう番組で「ほとんどの虫は親に会ってない。卵を産んだら死ぬから。親からああしなさいこうしなさいと一切教わらない。でもその子たちは残された遺伝子の情報だけで生きてまた次の世代に繋げてゆく」と熱弁されていて、近代日本でも明治維新と太平洋戦争と2度も価値観が180度ひっくり返る大転換期があって、それこそ大人たちは自分が生き残る、順応することで精いっぱいで後進の育成はおろそか、おざなりだったと思うのですが、ところが(いちおう)世の中はまわってますし、日本は滅んでいません。親(大人)世代がどんなに憂いても嘆いても次の世代は勝手に育っていくんですね。で、また同じように子ども世代を憂いて嘆く。

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