晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

北村薫 『八月の六日間』

2020-09-29 | 日本人作家 か
すっかり涼しくなって、朝晩はヒンヤリとするぐらいで、家の中で半袖短パンでいるのがちょっと辛くなってきました。
あの暴力的な暑さはどこへいってしまったのか。

さて、北村薫さん。この作品はファンタジー感のある物語ではなく、「山岳小説」といったらちょっとオーバーでしょうけど、山登りのお話。それだけではなく、主人公の仕事関係の話であったり、プライベートの話もあります。

東京の出版社で働く女性が趣味の登山に行くのですが、「グレートトラバース」みたいな、あそこまでハードな登山ではありません。とはいっても日帰りのトレッキングレベルではなく、〇泊〇日の日程で山小屋に泊まったり、ハイドレーション(水の入った袋からチューブが出ててそこからチューチュー飲むやつ)を持って行ったり、雪の山道でアイゼン(靴に装着する金属製のスパイク)を装着したりと、なかなか本格的。でもその他の荷物は「必要最低限」ではなく、着替えがちょっと多めだったり、お菓子もいっぱいだったり、あと出版社勤務で本好きということで必ず本を持って行きます。そして、幼なじみの友人に「槍を攻める」とメール。すると友人が「戻ってこなかったらこの前着てたコートちょうだい」とエール。

「槍を攻める」とは、標高3,180メートルの槍ヶ岳に登ること。といっても「攻める」という言葉を使っていいのは、上級者コースからアタックする人で、主人公はそこまで無茶はせず、初心者向けの人気コース。

新田次郎「孤高の人」の主人公は、人嫌いで無口、でも山に入ると人恋しくなるというのが面白いなあと思ったのですが、こちらの女性は別に人嫌いでも無口でもありません。が、山小屋でたまたま出会った初対面の人に自分の高校時代の話をしたりします。

日常生活を送っているときと山登りをしているときがまるで別人になったようで、このギャップが山登りの魅力なんでしょうか。「死」というものを普段はそんなに意識したり実感したりというのは少ないでしょうが、山ではすぐ隣。この話の主人公も、友人の死というのを経験はしているのですが、死生観というまで大げさなものではありませんが、そこまで重苦しく描いてはなく、山にいるとき、ふと思い出すのです。

「そこに山があるからだ」とは、登山家のジョージ・マロリーが「なぜ山に登るのか」と聞かれたときに答えた有名な言葉ですが、まあエベレストに行くレベルの人はともかく、趣味レベルでも「なぜ山に登るのか」という答えが、じつはけっこう簡単な答えが、この本にはあるような気がします。
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葉室麟 『陽炎の門』

2020-09-17 | 日本人作家 は
関東南部はようやく朝晩は涼しくなってきましたね。これからいよいよ読書の秋。というわけで我が家には未読の本が山積み。といいますのも、緊急事態宣言以降、買い物といえば食料か生活必需品くらいなもので、本とか服とか買いに行ってません。ではどうするかというとネットショッピング。ああいうところでは「~冊以上(〇円以上)は送料無料!」というのをやっておりまして、そうしますと、ついつい送料無料にするために多めに買ってしまうんですね。ま、あとで全部読むんですから別にいいんですけど。

以上、ネットショップに潜むワナという問題について一石を投じてみました。

さて、葉室麟さん。

この作品は直木賞受賞作「蜩ノ記」の受賞後第一作目か二作目。

「蜩ノ記」で、直木賞の選考委員から「登場人物がみんな清廉」という批評があったそうですが、まあその発言に影響を受けたかどうかはわかりませんが、この作品は登場人物が清廉ではありません。といいますのも、おおざっぱなあらすじは、御家騒動。

たいてい御家騒動を扱ったどんな時代小説でも、登場人物はみんな薄汚いものです。

九州にある架空の「黒島藩」の城門をくぐるひとりの藩士、桐谷主水。四十歳にならない若さで藩の執政になった、いわばエリート。ですが、彼についた不名誉なあだ名は「氷柱(つらら)の主水」。

十年前、黒島藩は熊谷派と森脇派という派閥争いでまっぷたつに分かれていました。その争いは森脇派の負けになったのですが、そのきっかけとなったのが、主水の幼なじみを切腹に追い込んだ「殿の落書き事件」。

当時、主水は熊谷派で、幼なじみの芳村綱四郎は森脇派でした。ある日、「佞臣ヲ寵スル暗君ナリ」という落書きが見つかって、その犯人捜しということになり、主水は「この字は綱四郎の字です」と証言。せいぜい降格処分かと思っていたら、なんと綱四郎は切腹の処分。
ところが、綱四郎は介錯人(切腹をするときにはやく苦痛から解放させるために後ろから首を斬る人)に、主水を指名したのです。
綱四郎には息子と娘のふたりの子がいて、切腹の前に「いいか、決して主水に恨みを持ってはだめだ」と言い残します。

その後、息子の喬之助は江戸へ、娘の由布は、なんと主水の妻に。

大きくなった喬乃助は、江戸の剣術道場の師匠を連れて「父の仇討ちをする」と黒島藩に許可を求めます。というのも、彼のもとに「お前の父親は冤罪だ」という書が届いたのです。主水の上役たちは、あの派閥争いが蒸し返されるのはごめんというわけで、与十郎という若侍を、主水の行く先々に同行、つまり見張りをつけることにします。
そもそもあの落書きは本当に綱四郎が書いたものだったのか?確信がゆらぐ主水。

そこで、少年時代の主水と綱四郎とふたりの先生を訪ね、あれは本当に綱四郎の字だったか聞くと「藩主に対する悪口は綱四郎の字だ。しかし、その下にある(百足)という字は別人のものだ」と言われ、この落書きには(百足)という署名があったことを、しかも(本文)とは明らかに筆跡が違うのを、ちゃんと確認していなかったことに今さら気付く主水。

先生は、この件は、派閥争いのさらに前にあった「後世河原騒動」に関わりがある、と教えてくれたのですが・・・

「後世河原騒動」とは、黒島藩中にあったふたつの剣術道場どうしの争い。じつはこのとき、道場の門人どうしの対戦はある程度終わっていたころになって、覆面をした数人が来て、倒れている怪我人にさらに暴行するという非道な振る舞いをしていて、主水と綱四郎は止めに入り、覆面をしていたうちのひとりが腕を斬られて、のちに出家します。この男の父親というのが、藩の重役。この重役は息子の腕を斬ったのは綱四郎か主水のどちらかに違いないと思っていて・・・

はたして主水が綱四郎を切腹に追い込んだ「落書き事件」と「後世河原騒動」との接点とは。喬乃助は仇討ちのために三か月後には黒島藩に来るのですが、どうなるのか。また派閥争いが蒸し返されるのか。そして与十郎の正体とは、彼の真の目的とは。

先述したとおり、メインストーリーが御家騒動をあつかったもので、そりゃ清廉というわけにはいきません。
序盤は気が滅入るような内容で、読み進むのにちょっと時間がかかってしまったのですが、後半に進むにつれてだんだんと真相が分かってきてから読むスピードが速くなってきて、最終的に「いやあ面白かった。読んで良かった」となりました。
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北村薫 『水に眠る』

2020-09-12 | 日本人作家 か
9月に入って、日中はまだまだ暑いですが、夜はいくらか過ごしやすくなったような気がします。でももしコロナが無ければ、あの8月の猛暑の中でオリンピックをやってたと考えたら、大量の熱中症患者の対応で大変だったでしょうね。どうせだったら夜は墓場で運動会でもやればいいんですよね、参加資格は生きてる人間じゃないですけど。

そんなワイドショーみたいな戯言はさておき。

北村薫さんの短編です。シリーズものでの短編と中編は読んだことはありますが、1話完結の短編ははじめて。

親からお見合い話が来るような年頃の女性の家に、不思議な電話が・・・という「恋愛小説」
状巣に連れて行ってもらった特殊なバーの特別な水が・・・という表題作の「水に眠る」
同僚の男性の高級そうなネクタイが・・・という「植物採集」
ある家電メーカーで新商品を開発した男の娘が・・・という「くらげ」
不思議な発想の妻が放った蚊と蝿の対戦・・・という「かとりせんこうはなび」
一妻二夫という法律がある世界で、とある一家に二番目のパパが・・・という「矢が三つ」
書店を開いて、そこにアルバイトの女子高生がやって来て・・・という「はるか」
むかし俳優をやっていたという老人の話が・・・という「弟」
妻の妹が受験で家に来て・・・という「ものがたり」
あるカップルがドライブデートで海へ行って・・・という「かすかに痛い」

なんといいますか、全体的にふんわりとしたファンタジーっぽく、まあたぶん北村薫さんは殺伐とした気が滅入る文章とかあまり書かないと思いますから、そこらへんは北村薫さんぽい作品だな、と。

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阿部龍太郎 『下天を謀る』

2020-09-06 | 日本人作家 あ
ここんところ、投稿の頻度が落ちています。先月は2回のみで、今月に入ってようやく1回目。まあ暑くて本を読む気にならんというのが大きい理由ではありますが、個人的に生活環境がまたまたガラリと変わりまして、ようやく慣れてきたかなと。もっと慣れてくれば趣味の読書の時間も取りやすくなるのかなとは思います。

さて、阿部龍太郎さん。初めて読みました。

この作品の主人公は藤堂高虎。戦国時代の武将です。歴史の教科書のメインストリートにはあまり登場してきませんが、そのメインストリートで大活躍してきた人物たちからはとても重宝されました。

歴史好きな人の一部からは「主君をコロコロ替える世渡り上手なヤツ」といったイメージが強く、じっさいに浅井家、織田家、豊臣家、徳川家と仕えてきたので、史実上でいえば間違いはないのですが、たとえば戦国時代でいえば負ける方、幕末でいえば新選組といった「滅びの美学」がお好きな方からすればけしからんヤツなんでしょう。
ですが、ある有名なサッカーの監督が言った「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」という言葉の通り、または地球に誕生した生命の生存競争しかり、ロマンだの美学だのは置いといてまずは生き残ろうぜという話でいうと、藤堂高虎という人物は現代でいうとどんどんキャリアアップしていくビジネスマンで、終身雇用が当たり前だった時代では理解しにくかったのではないでしょうか。
ここで大事なのは、主君が変わっていく中、戦国時代にはありがちな「裏切り」が無かったということ。いくら下克上だの肉親でも殺し合うだのいってても、やっぱり卑怯というのはダメですね。

対戦型のボードゲームといえば、和だと将棋で洋だとチェス。基本的には両方とも相手の大将(キング)を取ったら勝ち、なのですが、違うのは、将棋は相手方の駒を自分の味方として使えること。こういう発想は「ゲームだから」ではなく、戦国時代でも普通にあったそうです。

きちんとした史料に基づいての人物一代記ですので、ストーリーをここで説明するのもあれですから、面白かった部分を抜粋。
加藤清正、池田輝政とは仲が良かったそうです。特に清正とはたんなる戦友だけではありませんでした。
豊臣家家臣の時代、聚楽第に家康のための屋敷を作ることになりますが、設計上おかしい部分を変更します。それを家康に指摘されると「そのまま作ったら主(秀長)のミス、ひいては関白様(秀吉)の評判を落とすことになりますので自分の一存で変更しました」といって、家康はこの行為に感心したそうです。
「槍の勘兵衛」こと渡辺勘兵衛は高虎にも一時期仕えていたそうです。

そして、なんといっても、家康が息を引き取る直前、枕元に呼び寄せて「来世ではいっしょにいられないのが残念だ(家康は天台宗、高虎は日蓮宗)」と家康が言うと、その場で改宗して「来世でも仕えさせていただきます」というと家康はにっこり笑って感謝し「ただし、すぐに追っかけてきてはならぬ。わしの年までは生きろ」といいます。そして、高虎が亡くなったのは14年後のこと、家康と同じ享年75。

とにかく家康から重宝されて、秀忠にとっては恩師、親代わりといっていい存在で、他の家臣からすればやっかみもあったでしょうし、だからこそ幕末に伊勢津藩が官軍側についたときは「さすが藤堂藩、藩祖の教えを守り抜いている」という皮肉も出たのでしょう。

歴史を語るときにはどうしても指揮官目線になるのは仕方のない事ですが、じっさいはほとんどの人は仕える側ですので、そう考えると、高虎の生き方をそうかんたんに皮肉ったり否定はできないと思うのです。
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