晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

ケイト・モートン 『忘れられた花園』

2022-06-29 | 海外作家 マ

いつの間にか関東は梅雨明けしちゃいましたね。降るときにはしっかり降ってもらわないと梅雨や台風のおかげで日本は地下水や河川の水量が豊富ということもありますからね。温帯湿潤気候に住んでいれば避けようのないことでしょうがないのですが、いっぽう世界のどこかでは干ばつやら水不足やらで大変なんて地域もあるので、なかなか「ちょうどいい」なんてないものですね。

以上、地球の気候変動に警鐘を鳴らす。

さて、ケイト・モートンさん。オーストラリアの作家で、デビュー作「リヴァトン館」が大ヒット、ということですが、当ブログで確認しましたら2013年に投稿してますので9年前に読んでますね。この作家さんの別の作品も読んでみたいと思いながらはや9年。

1913年、ロンドン。小さな女の子が(おばさま)といっしょに船に乗り込みます。女の子はなにかのゲームかと思って樽の陰に隠れます。

話はだいぶ飛んで2005年、ブリスベン。カサンドラは祖母のネルの葬式の後、ネルの妹から衝撃の事実を聞かされます。それは、長女のネルは実は養女だったということ。ネルの21歳の誕生日に父親(じっさいは養父)がネルに「じつはお前は小さいころにトランクひとつだけ持ってイギリスから来た船に乗っていたところを港で働いていた私が見つけて、預かってそのまま育てた」と告白したのです。それまで仲の良かった親子間、姉妹間の関係もギクシャクしてしまいます。

カサンドラは幼少期から大学卒業までネルといっしょに住んでいました。おばあちゃんとの思い出に浸っていると、ネルの長年の友人で弁護士のベンが訪ねてきて封筒を渡します。それはネルの全財産をカサンドラに譲り渡すという内容の遺言書。さらに別の封筒を出します。これは病気になったネルがベンに「自分にもしものことがあったら封を開けてくれ」と預かっていたもので、ネルが亡くなった翌日に開封します。それは、イギリスにある家の権利書だったのです。正確にはコーンウォールのトレゲンナという村にある(クリフ・コテージ)、登記は1975年。カサンドラがネルといっしょに暮らしはじめる前の話なのでネルがイギリスに行ったことじたい知りませんでした。その別の封筒には「これをカサンドラに遺贈する。いずれその意図を理解してくれることを願って」との一筆が。

じつは養女だったと聞かされたネル。イギリスから来た船にネルといっしょにやって来たという小さなトランクを開けてみると、1913年に出版されたおとぎ話集が入っていて、開いてみて著者の似顔絵を見るなり奥底に眠っていた記憶が呼び起こされます。小さい頃に一緒に遊んだおばさま。お話のおばさま。イライザ・メイクピース。図書館に行って調べますが手がかりとなる情報は得られません。

話は2005年に戻り、カサンドラのもとにベンがやってきて、ロンドンに住むベンの娘がイギリスの地所について調べてくれたそうで、ネルの買った家の敷地はもとの持ち主がマウントラチェット家といって、ローズという娘と結婚していたのがナサニエル・ウォーカーというアメリカ人の画家。大学で美術史を専攻していたカサンドラは聞き覚えがあります。家に戻り、物置き部屋に入って、小さいトランクを見つけ出し、開いてみると、中にはおとぎ話の本とネルの書いたノートが。そこには、ネルがイギリスに行って自分の出生の秘密を解き明かそうとしたことが書いてあったのです。

居ても立っても居られなくなったカサンドラはイギリス行きの飛行機に乗り、ロンドンに着いてベンの娘に会い、そしてコーンウォールへ・・・

ここから、1900年からのイライザ・メイクピースの話と、1975年のネルのイギリスでの話と、2005年のカサンドラのイギリスでの話が絡み合っては解けてまた絡んで解けて、といった具合に進んでいきます。イライザはマウントラチェット家とはどのような関係だったのか。ローズはどのようにしてナサニエル・ウォーカーと出会い結婚に至ったのか。そしてネルはなぜひとりでオーストラリア行きの船に乗せられたのか。その時いっしょにいたはずのイライザはなぜ一緒に乗らなかったのか・・・

正直、はじめの100ページくらいまでは、話が、というより時代がぴょんぴょん飛んで「なんだか掴みにくいなあ」と思いましたが、少しずつパズルのピースが埋まってくるとそこからはページをめくる手が止まりませんでした。そしてラストで真相を知って泣いてしまいました。

物語の合間に差し込まれているイライザ・メイクピースのおとぎ話が本筋にじつにいいアクセントになっています。

久しぶりに他の人におすすめしたい作品です。喜びを共有したい、そんな自分にとって大切な人に。

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お金かけずに有意義な休日の過ごし方

2022-06-21 | 自転車

この前行った、温泉が併設されている千葉県睦沢町にある「道の駅むつざわつどいの郷」からちょっと行ったところに、石窯で焼くパン屋さんがありまして、お休みの日に車に自転車を積んで道の駅に車を置いて自転車でそのパン屋に行ったり他の名所旧跡を見たりして、道の駅で温泉に入ってお買い物して帰ってくる、といったさほどお金もかけずものすごく有意義な休日の過ごし方をしようと思ったのですが、そのパン屋さんの定休日が月・火・水で、こちらの休みが月と火。

ダメじゃん。

というわけで、他の道の駅に行ってみることに。温泉は併設されていませんが、ちょっと離れたところに天然温泉施設があるではありませんか。そこに行きましょう。

着きました、道の駅くりもと紅小町の郷。紅小町とはサツマイモですね。他県にはあまり出回ってない(幻の品種)とかで、毎年9月頃になると買いに来ます

この道の駅からちょっと離れたところにある川沿いの道をひたすら。途中でボートが。向こう岸に渡る用ですかね。

1時間近く走ったでしょうか。着いたのは別の道の駅。「多古あじさい館」です。ここではお買い物せず、休憩。多古米っていうお米が有名です。新米の季節になったら毎年買いに来ます。

このままだったらたんなる道の駅巡りになってしまうので、近くの名所旧跡へ。行ってきました日本寺。日蓮宗のお寺で開基から700年という名刹。この季節は境内のあじさい遊歩道が人気です。

さて、次に向かうのは飯高寺。「飯高檀林(僧侶の学問所)」として有名です。日本寺にも檀林がありましたが、飯高檀林のほうが格式も上で規模も大きかったそうです。いきなり急な階段。明治に入って立正大学に受け継がれたそうです。巨木の向こうにあるのが講堂。最近だと大河ドラマ「麒麟がくる」や朝ドラ「とと姉ちゃん」のロケ地に使われました。水戸光圀も訪れたそうで、近くに(黄門桜)という桜の木があるので春になったら来てみましょう。

で、来た道をそのまま逆に。そして道の駅に戻ってきて自転車を車に積んで向かったのは温泉。もう足がパンパン。温泉温泉温泉温泉。

・・・えっと、温泉と書いてあるけど大丈夫かしら。駐車場には車が10台以上あったし、まあ大丈夫でしょう。

温泉はコーヒーみたいな褐色でいいお湯でした。肌のハリや潤いにいいそうです。あと疲労回復、神経痛、筋肉痛、関節痛、冷え性などなど。

Googleマップによると起伏はけっこうあって、距離は片道21.2キロ。往復40キロ超ですか。ヘロヘロに疲れて温泉に入ったら眠くなっちゃったので帰りの運転は気をつけました。

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六月なのに五月晴れ

2022-06-13 | 自転車

先週末の2日間は大学の授業で都内へお出かけしまして、今日の午前中に病院に行き、帰りの車内でラジオを聞いていたら「関東は五月晴れ」と朝の天気予報で言ってたそうで6月でもいいの?と話してまして、もともと「梅雨の合間の晴れ」のことで、旧暦だと5月ごろに梅雨入りしていたので、それで間違ってはいないそうです。さらに今日の晴れが梅雨の合間の貴重な晴れなんだそうで、ここ最近自転車に乗ってないので、今日を逃したらマズイとお昼ご飯(釜玉うどん)を食べてお出かけ。空気圧もチェックね。

とりあえず近隣の名所へ。近くに住んでて名前だけは知ってたけど行ったことない場所へ。けっこうあるもんです。

というわけで、池。

近年ではバス釣りポイントとして有名ですが、実はこの池、心霊スポットとして(おそらく)全国的に有名なのです。なんか若い女性の幽霊がどうのこうの。まあたいていどこの田舎でも湖や池や沼、あるいはトンネルといえば心霊スポットで地元の中学生とか肝試ししたりと定番メニューですよね。

こんな感じ。貸しボートもあります。池の周囲に遊歩道があって散歩でもしようと思ったのですが外周は3キロ近くあって疲れちゃうので諦めました。

ボートで釣りしてる人もいましたね。

Googleマップによると片道9.6キロ、まったくの平坦。ゆっくり行ったので片道だいたい50分くらいでしたね。

梅雨の晴れ間にいい運動でした。

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井上靖 『蒼き狼』

2022-06-08 | 日本人作家 あ

あっという間に6月になってしまいました。関東は梅雨入りしましたね。家の中で過ごす服兼パジャマとして作務衣を着てまして、サイズはMなのですが、自分にはちょっとだけ大きいような。まあ大は小を兼ねるという言葉の通り小さすぎて着られないということはありませんので別にいいっちゃいいんですが、そういえばシャツなんかでも同じMサイズでもメーカーによって大きかったり小さかったりがあります。

以上、味噌汁のお椀は大きいやつを使ってます。

 

さて、井上靖さん。中国が舞台の歴史ものがいくつかありますが、この作品はモンゴル。モンゴルといえばここ最近では相撲ですが、世界史の授業で出てきたのはモンゴル帝国。日本史の授業だと蒙古襲来、元寇ですね。

13世紀前半、一代でモンゴル統一、中国北部、中央アジア、アラブ圏まで征服したのが成吉思汗(チンギス・カン)。文中での表記は成吉思汗ですのでそれでいきたいと思いますが、この表記だとどうしても丸い鉄鍋でラム肉と野菜を焼いてタレつけていただく北海道の名物料理が浮かんできますが、名前の由来は(羊肉といえばモンゴル料理でモンゴルといえばチンギス・カン)というのが定説というか共通認識ですね。

幼名が鉄木真(テムジン)といって、ボルギジン氏族という部族で、全モンゴル部族の支配者の称号である汗(カン)の、いちおう本家筋にあたる家柄なのですが、鉄木真が生まれた当時は各部族が争っている状態。父親は勇者エスガイ、母親はホエルンといいますが、鉄木真の生まれる前、エスガイはメルキトという部族との争いに負けて、ホエルンはメルキトに連れさらわれてしまいます。エスガイはのちにメルキトからホエルンを奪い返すのですが、実はこのときホエルンはメルキトの男の妻になっていて、鉄木真が生まれたときには父親がエスガイなのかどうか確証はありませんでしたが、ホエルンは「この子の父親はエスガイに間違いない」と言い張ります。このことはのちにエスガイが亡くなったときに鉄木真が思わぬ形で知ることとなるのですが、これがのちの鉄木真の人格形成に大きく影響します。

鉄木真には弟が5人(うち2人は異母弟)と妹が1人いますが、出生の秘密を知ってしまったきっかけは異母弟が「父親がメルキトのお前はエスガイの後継者ではない」と鉄木真への服従を拒否したことで、鉄木真はこの異母弟を殺害してしまうのです。モンゴル人のルーツは蒼き狼と惨白い牝鹿から生まれたという神話があり、自分がモンゴルの汗になるためには狼にならなければならないと鉄木真は心に誓うのです。

鉄木真は17歳になり、ボルテという娘と結婚します。しかし、あろうことかメルキトの襲来に遭ってボルテが連れさらわれてしまいます。この当時の一番の有力者である、父エスガイと交流のあったケレイト部族の長トオリル・カンに助けを求め、トオリル・カンの盟友ジャムカとともにメルキト征伐に向かいます。無事にボルテを連れ戻したのはよかったのですが、なんということでしょう、彼女は妊っていたのです。

そして、ボルテは男の子を出産します。「名をつけて下さい」というボルテに向かって「俺の子かどうか判らぬ」と突っぱねます。今ならこんなことをSNSに投稿しようものなら大炎上。しかしボルテは「貴方の子ではないという証しはどこにもない、貴方の子です」といい、頭の中が混乱している鉄木真は「ジュチ」と名付けます。その意味は「客人」。将来この子も自分と同じ苦しみを持つ運命で、その苦しみから解き放たれるには自分自身が狼にならねばならぬという宿命を背負っている子に「お前も狼になれ」と心のなかで言います。

それはそうと、トオリル・カンとジャムカは駐屯地から引き上げようとしません。じつはこの2人、盟友とはいえ、どちらか先に引き上げたら背後から襲撃される恐れがあるとお互いにまったく信用していないのです。鉄木真は現時点でどちらかに属したほうが得策と考え、トオリル・カンとジャムカ両者に「同じ日に反対方向にこの地を引き上げては」と提案し2人は同意し、鉄木真はジャムカに付いて行くことに決めます。そしてジャムカと盟友の契りを結びます。やがてジャムカの配下の中に鉄木真の配下に移る者が現れ、気がついたら鉄木真の部隊はかなり大きくなり、そんな中、ジャムカから離反したというみすぼらしい老人が「神から鉄木真は全蒙古高原の王となる人だとお告げがあった」と預言します。そして、とうとう汗になることを宣言します。やがてジャムカとの戦いに勝った鉄木真は勢いそのままに中国の金国と戦争中のモンゴル民族にとって仇敵のタタル族を背後から襲ってタタルを滅亡させます。そして、父と慕うトオリル・カンと蒙古高原の支配者争いをしなければならない日が来て、この争いに勝ち、全蒙古の王となり、各部族の長から「成吉思汗」と呼ばれます。「盛大なる大君」という意味で、このとき44歳の成吉思汗はアルタイ山脈を超え、北はバイカル湖、南はゴビ砂漠そして万里の長城を超えていかなければならぬと心に誓い・・・

モンゴル軍の編成はまず末端が10人の小隊で小隊が10個集まって100人の中隊、中隊が10個集まって大隊となります。このような「階層構造」だと、情報や命令の伝達が各隊のリーダーに伝えればいいのでスムーズに行われます。

65歳でこの世を去るまでずっと他国との争いの日々。高麗との連合軍で日本に攻めてきたのは孫のフビライの代になってのことですが、最後の方で末子のツルイの息子としてちょろっと名前が出てきます。成吉思汗の時代の中国は金と南宋とに分裂していて(さらに西部には西夏があった)、成吉思汗は南宋には攻めませんでした。インド、クメール王朝、アラビア半島とビザンチン帝国、神聖ローマ帝国にもケンカを吹っ掛けることはしなかったのですが、勝ち目のない戦はしない(インドに攻めようとしましたが中断)のと、味方を極力失いたくないというスタンスで、しかしモンゴル統一からたったの20年弱でユーラシア大陸のほぼ全域を手中に収めるというのはたんに「機を見るに敏」だけではなかったと思います。

 

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