晴乗雨読な休日

休日の趣味レベルで晴れの日は自転車に乗ってお出かけ。雨の日は家で読書。

三浦綾子 『海嶺』

2010-01-07 | 日本人作家 ま
この物語は、江戸後期の天保三年、尾張(現在の愛知県)熱田の港を
出た千石船が嵐に合い漂流、14人いた乗組員のうち11人が死亡、
3人だけが生き残り、アメリカに漂着、その後イギリス人のはからい
により、生き残りの3人はハワイからマゼラン海峡を通ってイギリス
へ、それからインド洋を渡りマカオへ。
日本人を乗せたアメリカの商船は、親書を持って江戸湾に入ろう
とするも、日本側は上陸を認めず、船に向かって大砲を撃ってきます。
やむなく船はマカオに戻ります。

ここまでが物語で、編集後記として、その後の生き残りの日本人の
消息を説明してあります。

「にっぽん音吉漂流記」や「米船モリソン号渡来の研究」という文献が
あるように、この話は実際にあったもので、その後、生き残りの一人で
ある音吉の息子はシンガポールから日本に戻り、入籍届を申請しますが、
その申請が認められたか却下されたかは不明だそうです。

時は江戸、天保年間。尾張の熱田港を出航した宝順丸は、嵐に合い、一年
と二ヶ月もの間、漂流を続けます。生き残ったのは、音吉と久吉の14歳
の子どもと、舵取りの岩松の3人のみ。
宝順丸は、もともと江戸に米を届ける途中であったため、船内には米は
豊富にあったため、餓死はまぬがれます。
漂流の行き着いた先は、北アメリカのブラッター岬。そこで3人は地元の
ネイティブアメリカンの部族に捕われ、奴隷として働かされます。
しかし、部族と交流のある別の部族に手紙を託し、その手紙を見たイギリス
人が彼ら3人を引き取ります。
イギリスは、当時鎖国体制であった日本と貿易を求めていて、3人を無事
日本に送り届けるという恩義を外交カードと利用しようという目論見が
あったのですが、3人にとっては、見ず知らずの漂流民に寝食を提供して
くれる存在。
そして彼らは「神の思し召し」とキリスト教精神を口にします。

江戸時代の日本では、キリシタン弾圧と鎖国政策により、オランダ人と
清国人以外の外国人は鬼か悪魔のように聞いていた3人にとって、
彼らの無償の親切はそれまでの考え方には、青天の霹靂だったことで
しょう。

やがて、音吉と岩松あらため岩吉は、次第にキリスト教の考え方に
共鳴してゆきます。しかし、心のどこかには、日本に帰国した際には
厳しい取調べののち殺されるという恐怖も頭にもたげており、ジレンマ
に苦悩します。

尾張の港を出てから五年、とうとう日本に戻れると喜ぶ3人ですが、
浦賀沖に停泊する船に向かって砲撃され、次に薩摩に向かいますが、
そこでも砲撃を受けて、マカオに戻ることになってしまいます。

「信じられん、何でわしらを撃つんか」
「あれが日本や、あれが日本なんや」

絶望に打ちひしがれるなか、岩吉がぽつりと
「そうか、お上がわしらを捨てても、決して捨てぬものがいるのや」
とつぶやくところが、胸を打ちます。
コメント (2)
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