所属している学校から卒業式のお知らせが来てまして、4年半(履修期間を延長したので)の学生生活、といっても通信制でしたのでキャンパスライフを謳歌したというのはほぼありません。あ、でもスクーリングでちょくちょく行ってはいましたが。でも通信制のスクーリングはほぼ土日。まあ働いてる人がメインですから仕方ないですけど。
以上、卒業写真のあの人はやさしい目をしてる。
さて、髙田郁さん。一般的にかどうかはわかりませんが、歴史小説は史実や実在の人物をメインに描き、時代小説はたんにその時代を背景に描かれる、といった違いがあるようでして、髙田郁さんの今まで読んだ作品は時代小説。ですが、この作品は幕末から明治にかけての蘭方医、関寛斎の妻が主役となっています。
関寛斎に関しては資料も文献もたくさんあって過去には関寛斎が主人公の小説もたくさん出てますが、あとがきにありましたが妻の記録はほぼ無いとのこと。
時は幕末の天保。上総国山辺郡前之内村の農家の娘あいは、木綿を紡いで糸にするのがとても上手で、母親はこの糸を年子伯母さんに持っていくようにいいます。年子の夫は関俊輔と名乗り、私塾を開いていて、年子は機織り名人。あいは機織りを教わります。
年子と俊輔には豊太郎という養子がいるのですが、とても頭がいいと評判で、佐倉順天堂という医学校に進学することに。それを機に「寛斎」と改名します。17になったあいは縁談が持ち込まれるようになります。すると年子は「あいは寛斎の嫁にすると決めている」というではありませんか。しかし寛斎は医者になる修行中でいつ帰ってくるかわかりません。しかしこの当時の結婚というのは親同士が決めるというのが当たり前で、ましてや娘には拒否権などありません。私塾で勉学に励んでいた豊太郎を見て知ってはいましたが、佐倉から一時戻った寛斎と初めてまともに会話します。関係性でいえば、あいの父と俊輔が兄弟で、年子の妹の息子が寛斎、つまり血の繋がりはありませんが義理のいとこにあたります。
豊太郎改め寛斎は佐倉順天堂で修行して、家に戻って診療所を設立します。それから数年後、師匠の佐藤泰然の推薦で、銚子に医院を開業することになるのですが、そこで老舗の醤油屋の主人、濱口梧陵と出会うことに。
長崎でコレラが発生し、やがて江戸でも発生します。すぐに銚子でも起こると心配した梧陵は寛斎に江戸に行って治療法を学んで来てくれと資金を出します。そのおかげか銚子ではわずかな罹患者しか出ませんでした。それから、長崎でオランダ人医師のポンペからの指導を受けるための資金援助もしてくれます。
長崎から戻ってのち、江戸へ出かけます。その用とは、阿波藩主の国詰め侍医になってほしい、というもの。しかし寛斎には金や地位などには興味がなく、佐倉順天堂の後輩に銚子の医院を継いでもらって梧陵に支援してもらえば優秀な医師が増えるのと、両親と妻のあいと子(この時すでにふたり)のためにも安定した暮らしがしたい、とどこまでも利他の精神。
結局、両親は上総に残ることになりますが、寛斎ファミリーは阿波へ。しかしいきなりやって来た余所者の蘭方医がそれまでいた漢方医に受け入れられるはずもなく厳しい立場になったり、吉野川の洪水被害に遭ったり、さらに阿波に越してきてから産まれた赤子を亡くしたりと大変でしたが、時代は大政奉還、阿波藩は倒幕軍として京そして江戸へ行くことになり、寛斎も軍医として同行することに。新政府軍は奥州へと向かうのですが、そこで多くの負傷兵の治療に当たったことで評価され、しかも敵味方なく治療に当たったことで西郷隆盛からも評価されて東京で軍医として残ってくれと懇願されますが阿波に戻ります。そして藩と新政府からの遺留もすべて断ってそれまでの家禄を返上し、徳島市内に医院を開業。金持ちからは多くの治療費を、貧しいものからは治療費をもらわず、やがて「関大明神」と呼ばれることに。
寛斎とあいも還暦を過ぎ、寛斎は北海道の札幌農学校で勉強している息子のところへ行ってきて、返ってくるとあいに「北海道で暮らしたい」と・・・
小学校のとき、図書室に「千葉県をつくった人々」という本があって、千葉県にゆかりのある歴史上の人物、古くは平将門、千葉常胤、日蓮、里見義実、堀田正睦などなど、近代になってキッコーマンの人とか二十世紀梨の人とかと並んで関寛斎も載ってて、寛斎のエピソードはある程度知ってたのですが、晩年に北海道に移住して亡くなったのが北海道というのは覚えてませんでした。
個人的な話ですが、病院で働いてまして、こんな素晴らしい医者がいたのかと医療従事者の(はしくれ)として恥ずかしくなりました。
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