やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

「ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実」、を読む

2006-04-29 | 雑記

アシュリー・カーン著/川嶋文丸訳(音楽之友社)

一枚のジャズの名盤の為に、400ページ近い熱い思ひが詰まってゐました。
著者は、当時の状況を再現すべく、このアルバムやコルトレーン自身に関はった多方面の人物からインタビューや逸話を掘り起こし、それらをコラージュのやうに貼り付け、話を進めてゆく。

『至上の愛』から、『アセンション』へと向かふ、コルトレーンの憑かれたやうな音への執着。
鉄壁のカルテットを組んでゐたメンバーも、違和感を感じて去って行く。
戸惑ふ観客、リスナー。そして、去ってゆく観客。

「『至上の愛』は、単なる曲やレコードではない。父の、神へ奉げものなのだ」と語る息子ラヴィ・コルトレーンの言葉が、当時のジョン・コルトレーンの、ある意味、自らを追ひ詰めた状況がうかがへる。


小生もまた、日本にも数多ゐるコルトレーン信者のひとりです。

遙か昔、「『バラード』と『ハートマンとコルトレーーン』だけはジャズとして認めるが、他は一切認めない」といふ友人と、「嫌、違ふ!」と云ひながらも、論破できる根拠を求めてジャズ喫茶の中で、当時は騒音のやうにも聞こへたコルトレーンの後期の作品を聴いてゐました。

読後、久しぶりに『至上の愛』を聴いて、続けて幾つかのアルバムも聴きましたが、改めて驚くのは、コルトレーンが死して40年近くの時間が過ぎてゐることでした。
その、疾風怒濤のやうな生き様、残された憑かれたやうな演奏のすべて。
それが今もって新鮮なのは、そこに凄まじいまでの美しさがあるからなのかも知れません。



(写真は、表紙)