やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

マイナー、ですが…

2013-10-14 | やまがた抄


週末、山形市の中心街周辺は、ちょっとした賑はひでした。

現在、丁度、”山形国際ドキュメンタリー映画祭”が開催中で、若い方や外国の方も街に多く、それに加へて週末に、最上義光没後450年のイヴェントが色々と開催されてゐました。

最上義光(もがみよしあき)、といっても全国的にはまったくのマイナーな大名でせうが、戦国時代から江戸時代前期にかけて、山形の基礎を築いた藩主です。伊達政宗の伯父にあたり、一時は山形藩をなんと57万石の全国有数の大藩にまで大きくした人物ですが、策略家であったらしく(戦国時代、策略は当たり前の思考ですがー)、後世の評判はきはめて悪く、現在もその評価が覆ってをりません。
(山形藩はといへば、義光の没後、内紛を続け、江戸末期には5万石の天領にまで落ちぶれてしまひます)

その名誉回復のためのイヴェントが今年は大々的に開催され、過日の芋煮会で話題になって、同席されてゐた高橋義夫先生の基調講演を聞きに行きました。

先生は心配されてをりましたが、ホテルの会場は立ち見も出るほどの盛況ぶりで、事前に”高橋義夫先生の関係です…”といふやうなことを云へば席を取っておく、とのことでその旨を係りの方に伝へると、なんと、山形市長と同列の最前列に”関係者”の名前があって、しばし、びっくりー。

基調講演と、その後のディスカッションで都合3時間ほどを面白く聞きました。
近々、飲み会があるやうなので、内容については、色々と話題になることでせう。





シャコンヌ

2013-10-09 | やまがた抄
佐村河内守の長大な交響曲を聴いてから、Youubeに載ってゐた「シャコンヌ」の演奏がひかかってゐました。
聴覚を失った作曲家のつむぐ、多彩な音にあふれてゐたシャコンヌの一部に耳が釘付け
なった。
そしてCDを買ふ。







現代、その表題に『シャコンヌ』といふものをつければ、紛れもなく、バッハの”パルティータ2番の終章のシャコンヌ”を意識して当たり前です。

初め聴くそのシャコンヌはそれを意識してか、バッハ風の苦渋に魅した旋律で始まる。

小生がバッハを聴くのは、弱い小生にはない《勁い意思》を少しでも感ずる為なのですが、佐村河内のそれは、美しい音の重なりの先に、すこし絶望的な終る。

(むか~し、《シャコンヌ》といふ映画を暗い映画館で見た記憶がありあます。フランス映画だったか、ドイツ映画だったか、シャコンヌしか弾かないヴァイオリニストと駅のキオスクの女店員だったかの、暗く、切ない話だったやうな記憶があります。)

そんなことを思ひ出させるやうに、20分ほどの大作は終る。


変遷

2013-10-07 | 書棚のジャズアルバムから
溜まるばかりのCDに、収納棚はとっくの昔にパンクし、いまは平積みの山が増えつつあります。
それらをじっくり聴く時間も少ないので、通勤の途中で片端から聴いてゐます。

先日、ふと目に留まったコルトレーンの、ニューポート・フェスティヴァルでの演奏を車のなかで聴き始めたら、仕事場の駐車場に着いても身体が動かなくなってしまひました。

どの曲も素晴らしいのですが、身体を縛り付けたのは、やはり、「My Favorite Things 」でした。

長い長い下積みの生活や、すでにスターだったマイルス・ディビスに”下手くそ!”と罵倒されながらの末に、1950年代末、なんとか自らのグループを持てだして数年ー。
コルトレーンの演奏にいきなりギアがはいります。

それらの中の名盤の一枚が『My Favorite Things 』です。
(はるかに昔、結婚前、付き合ってゐた女性と破綻状態になって、それでも最後の話をしたことがありました。色々な事情から、回復不可能になってゐて、逢ふのはこれが最后と思ったとき、女性の話す言葉と声に混ざって、何故かMy Favorite Things のアドリブが冴え冴えと頭のなかに聞こへてきたことがありました、っけー)

『サウンド・オヴ・ミュージック』で爽やかに歌はれたこの曲を、コルトレーンは、残りの短い生涯で繰り返し繰り返し取り上げて、そして、変遷させてゆく。


鳥のさへづりのやうに圧倒的に美しいアドリブの1961年の録音ー。




コルトレーンの全てのMy Favorite Thingsのなかでもっとも素晴らしいといはれてゐる、1963年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでの強く、勁 く前に驀進する演奏ー。




そして、5年の年月とは思へないほどに変貌し、すでに原型を失ひ、ただただ、闇に中へ、混濁の中へ、カオスの中へ突き進まうとする1966年来日時の聞くのもツライ演奏ー。
ライヴとはいへ、10数分だった曲は、一時間の修羅場に近い演奏に変貌してゐる。

ただその、凡庸な小生の理解や共感を拒むやうな変貌ぶりは、ジョン・コルトレーンといふ人間が、いちサックス奏者でもなく、いちジャズ・メンでもなく、紛れもない偉大な芸術家であり、また彼の最晩年の言動のやうに、偉大な活動家であった証左なのかもしれません。



















至福のモーツァルト

2013-10-06 | 音楽を
動画で一寸調べものをしてゐたら、なんと、クーベリック/バイエルン放送交響楽団によるモーツァルトの後期交響曲の6曲がずら~と出てゐた。

聴くものの胸に突き刺さるやうな、セル/クリーグランド管弦楽団による幾つかの演奏とともに、小生のもっとも愛するモーツァルトの交響曲の演奏、です。

あとは、ブリテン/イギリス室内管弦楽団による演奏かしらんー。



この6曲の演奏は、LPでもCDでもすべて棚にあるのですが、何故か至極嬉しくなってブログに飾ってみました。

変哲もないけれど、でもとても深みのあるLP時のジャケットの写真とともに、落ち着いた、堂々としたモーツァルトが聴けます。

いまとなっては(30年ほど前の録音ですがー)、やや大振りな印象を与へますが、まだインターナショナルなオーケストラになる前の、バイエルン放送交響楽団のしっとりとした弦の響きや全体のサウンドがとても心地よい。

そして何よりも、ベートーヴェン全集でもさうでしたが、クーベリックの拘りのひとつ、ヴァイオリンを左右に配した昔ながらの楽器配置が、モーツァルトもベートーヴェンも当然その結果の音楽の妙を想定してゐたであらう音面(こんな言葉はないでせうがー)の面白さを遺憾なく味あはせてくれます。

深まりだした秋のひと時に、聴かれることを願ってー。

















『1900年』

2013-10-02 | 映画雑感


闇間に、すぐそれとわかる金木犀のかをりが漂ひ、朝は、うろこ雲が紅色に染まってゆく。

すっかり季節が変ってゐました。

そんななか、レンタル店でふと手にした『1900年』といふ映画を、都合5時間以上かけてみました。
(そんなに長い話だとは露しらず、見終はってバタバタと返しにゆきましたー)
大叙情詩ともいふべき、名匠ベルトリッチ監督がイタリアの現代史を描いた傑作でした。

話としてはよくある話ですが、それゆゑ、5時間を越える映画としてはメリハリに弱く、なんとなくラスト(ラスト・シーンではありませんー)の行方も途中で察しがついてしまったのですがー。

けれど、傑作、です。
主人公たちの名演技もさることながら、圧倒的に存在感のあるのは、その他多数の農民役の人たち、です。
節くれだった手や身体、しわだらけの顔、曲がった腰ー。
特に名シーンといふものはないのですが、全編にわたってその存在感を示し続けてゐる。

まさに、イタリア・リアリズムの真骨頂ともいふべき彼らの存在感ー!

日本の映画やTVでいつも不満なのが、その他大勢の人びとの存在感です。
映画に参加してゐます、画面を埋めてゐます、といふものが多く、逆に、妙に、はしゃいでゐたりしてゐる人が浮いてしまってゐたりー、と散々です。

しかしこの映画は、搾取され続ける農民たちの、ときに餓死寸前の姿や、ときに村の外れで音楽に興じる姿を画面に映し出して余りあります。


そして、やはり、イタリアはいいなあー!(また、行けるかしらん?)
そして、デ・ニーロといふ俳優は、存在感、あるなあー!