やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

ゼルキンのブラームス

2009-09-28 | 音楽を


ルドルフ・ゼルキンのブラームスのピアノ協奏曲を聴く。

1番と2番が収められてゐて、1番はセル指揮/クリーヴランド管、2番はオーマンディ指揮/フィラデルフィア管、といふ往来の豪華な顔合はせである。
ともに1960年代の後半に録音されたもので、ゼルキン自身も60代の頃である。

録音がさう多くないといはれるゼルキンの、特に集めたわけでもないのですが、彼のシューベルトのソナタやモーツァルトの協奏曲は時たま無性に聞きたくなる逸品の演奏です。

ブラームスの協奏曲は、きっと、さほどはなく、バックハウスとポリーニの演奏くらゐきりなかったはずです。

そのなかで、やはり、ゼルキンの演奏は、如何にもブラームスに似合ひの、無骨で、時に豪快に、時に感傷的な演奏で、ブラームス像の一面を創ってゐます。
ともにバックのオーケストラも当時の最強の実力が前面にでてゐて、奇しくも、東欧出身の音楽家たちの渾身の合作ともいふべき演奏になってゐます。


彼のモーツァルトも、余りにも朴訥としてゐて驚くほどですが、暫らくするとまた聞きたくなる、不思議な演奏でした。


秋、深まり…

2009-09-27 | やまがた抄
秋が深まりつつあります。

短い秋ですので、この季節、芋煮会への参加や、栗拾ひや山行きへの画策や、老いた親たちの病院行きなど、とても時間が足りません。

庭先では、いつの間にか駐車場の一角がコスモス畑になってゐて、それでもなんとか方向転換が出来るので、そのままにしてあります(種をまいた記憶もないし、鳥たちがこの場所に集中的に種を飛ばしたこともないでせうがー)。










からたち

2009-09-24 | 花や樹や


一寸息抜きをする場所は、いまどき珍しいからたちの生垣が見事なところです。

初夏には、白い花が咲き(♪からたち、からたち、からた~ちのは~な♪)、蜜柑類ですから、今は見事に大きな実がなってゐます。

今年の春ころでしたか、その生垣の主は大きな工場なのですが、社員の方が手入を一所懸命にされてゐました。
生垣を大事にしてゐる社長命令なのか、はたまた、景気が悪く受注が減ったのでやむなくだったのかー。
そのシーンをみてゐた小生は、後者だらう、と思ってゐましたがー。

景気の様子もすこし落ち着いた秋になって、安心したやうに、その実は色づきだしてゐます。

夜の金木犀

2009-09-22 | 花や樹や


車から降りたら、ほのかな香りがした。

金木犀、だった。

数日前には黄色の小さな粒しかなかったけれど、連休中の好天気で一気に開花したやうだ。

一家が離散し、その後人手に渡った生家の庭には金木犀はなかった。
けれど、
その後建てた小さな家の東南の角に金木犀を植ゑた。
山形に来てから建てた家にも金木犀を植ゑた。

何故好きなのかはわからないが、まう、30年近く、毎秋、それも夜に金木犀の香りに気づき、夏の終りと秋の深まりを感じてきた。

月山

2009-09-21 | 再び、山…
初夏から計画すること3回目にして、やっと天気にも恵まれ、月山に行くことができました。

何とか今年のうちに、とても辛い心の思ひを、死と再生の山月山の頂上から2000メートルの空の果てに解き放ちたかった。

まだ体力が充分ではないので、八合目まで車で行き、楽をしやうと思ひましたが、岩場だらけの登山道で、結構くたびれました。



羽黒の街からは、久しぶりに、美しい鳥海山が見事でした。


すでに駐車場は溢れかへってゐた。











途中の山小屋には、この山に願はれた死と生のイコンが散在する。


行者返し、の九合目。
不埒な行者はここで返される、といふ。











まさに、山の頂に素朴な神社がある。
この先には、死と、神があるだけ、である。











風立ちぬ…

2009-09-17 | やまがた抄
朝から久しぶりに素晴しい天気でしたので、医者嫌ひな老婆の、月に一度の検診を、「終ったら、温泉へゆかう」と上手く誘ひだし、受診が済んで蔵王へ上る。

秋蕎麦の花が満開です。




いつも行く露天風呂が設備点検で休館。
仕方がないので蔵王温泉まで足をのばし、山間の日帰りの温泉へ行く。
とても好きな、源七露天の湯、です。

受付で「県内の方ですか?」と聞かれる。
「さうですがー」といぶかると、何とかウィークでいつもは450円だが、250円だといふ。
「ラッキー、ですね。今日が最終日です」との話に、喜んで風呂へゆくと、誰もゐない。

まことに景色のよい露天風呂で、腹ばひになりながら秋の光をうける。
短く涼しい夏でしたが、それでも、なにやかにやと疲れも残ってゐました。
その疲れが、すっと抜ける。

風たちぬ、いざ生きめやも

と、堀辰雄の小説と、松田聖子の唄が沸き起こる。


温泉の紹介は、こちら



帰りがけ、道端で栗を拾ふ。
ことし初めての、少しばかりの収穫。



最上三十三観音/第30番/丹生村観音

2009-09-12 | 出羽百観音、を訊ねる
すでに薄ら寒くなった尾花沢の札所をいくつか訊ねた。

老いた旅の僧が、聖観音を地元のひとに委ねてこの地で亡くなった、といふ逸話を残してゐるといふ丹生村観音を訊ねる。

山形県の北部、実り間近の田園風景が妙にうら寂しいところに車を停めて、細い道を上る。

階段を登りきると、木立の中から澄んだ声が聞こへる。
数十人の婦人たちが、堂の中で御詠歌を詠んでゐた。

小生とは違って、まさに、観音堂が祈りや信仰の場所であることに、しばしその声に時間を忘れる。



















百年も前の病院

2009-09-10 | やまがた抄
次の用事まで、急に時間が余ってしまひ、久しぶりに旧済生館の建物を見に行く。
この春から入館が無料になったので、嬉しい限りです。

明治の初期、草深い山形の、けれどモダン都市山形を表象する建物のひとつです。
当時、県立病院として建てられました。

今見ても、とても、モダンです。
設立当時、時の”鬼県令”にはっぱをかけられて7ヶ月で建設されたといふことですが、内部を見て歩くと、「どうやっておさめればいいんだ!?」といふ声が錯綜してくるやうな、苦しいおさめが見受けられて微笑ましい建物です。

3階へは上がれませんが、凄まじい螺旋階段があって、ここ病院だよなぁ、と自問するほどのバリアフルな建物です。


当施設のサイトがあります。興味のある方は、こちらへ


















イッセルシュテットの《第九》

2009-09-08 | 音楽を






昨日は、”白露”でしたが、今年は一気に秋が深まりさうです。

道路沿ひでは、冷夏を撥ね退けるやうに秋の果実がたわわに実り、
我が家でも、連日の野菜の収穫です。


秋の冷気を感じたら、何故か急に《第九》が聞きたくなり、
初めてイッセルシュテットの演奏を聞きました。

この、ドイツの古武士のやうな指揮者は嫌ひではありませんでしたが、
さほどディスクはありません。
ベートーヴェンの6番と、バックハウスに伴奏した協奏曲の全集、あとは、確かブラームスの演奏があったかしらん。

昔から名盤の折り紙つきのヴィーン・フィルとの全集でしたが、
不思議なことに、第九は聞いてゐませんでした。

けれど、圧倒的な演奏でした!!

半世紀近くも前の、しかし、ヴィーン・フィルの強靭な演奏力とイッセルシュテットの老練で推進力ある演奏。
当時のデッカの録音技術の素晴しさが充分に残り、当時65歳だった彼ですが、昨今の演奏にも決してひけをとらない、否それ以上にこれ見よがしのない、強い演奏でした。

少し調べたら、最近再評価が高い、といふ。
確かに、余りにも分析的な演奏が多い中で、この豪快にして明晰な演奏は、ウロコを剥ぐに充分なのかもしれません。