やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

これは…?

2006-09-30 | やまがた抄


春先に、採ったり食したりする、山菜のミズの実、です。

病院通ひの時、お世話になってゐた叔母の家に、秋田に住む叔父が送ってきたとのこと。
小生も初めて見るもので、勿論叔母夫婦も初めてで、暫らく山菜談議に花が咲きました。

小生、キノコ採りには行かないので(知識が乏しくー)、山菜の秋の姿にはうとく、
なるほど確かに、山菜とは春の姿ばかりではない、と至極当り前のことに驚いた次第です。

山芋のムカゴと同じ原理で出来るらしく、
少し粘り気のあるその実には栄養分がたっぷりと詰まってゐるとのことで、
カモシカはこの実を好んで食べるらしいです。

天ぷらになったものをいただきましたが、
山形でも、ミズが採れるところは承知してゐますので、
紅葉を愛でながら、この秋、探してみやうかしらん。







節目ー。

2006-09-29 | 大岡山界隈





式の途中から降り始めた雨は、
皆の心配を拒絶するやうに、本降りになりました。

何故、人を送る時には、
推し量ったやうに、風が吹き、雨が落ちるのだらうかー。

風が吹き払ひ、雨が流し去ってくれる、からだらうかー。




秋茄子、を食ふ。

2006-09-21 | 大岡山界隈

先週の病院通ひの一日、甲州の妹宅へひと晩世話になり、
そのとき出された秋茄子がいたく美味しかったのでほめたところ、
飽きるほど食してー、と秋茄子が送られてきた。




色、艶が良いのは勿論ですが、
そのコシのある柔らかさには、脱帽です。



一寸、魚やイカの刺身のやうな、
かすかな甘みと、歯ごたへには、何を口に入れたのか一瞬戸惑ふほどの美味しさです。


見舞ふ。

2006-09-20 | 大岡山界隈

小生の父親を見舞ってきました。

肺癌で、急を要した知らせでした。
回復の見込みは少なく、
それでも小康状態になったので、仕事のこともあり、
一度山形に戻ってきました。



9月半ば、病院の敷地内では、百日紅の花がまだ咲き誇ってゐました。
一週間、この花を眺めながら病室へ向かひました。
音は、何もない日々。


             

秋の彼岸を迎へるかのやうに、曼珠沙華の花が開く。




日曜日の病院の待合室なんて、さう、滅多にひとりでゐるものではなく、
父は何を待つのか、その子は何を待つのかー。



『愛の…』、を見る

2006-09-10 | 映画雑感


GYAOで、大島渚監督の『愛の亡霊』『愛のコリーダ』を初めて見る。

共に、30年ほど前の、評判、話題になった映画でしたが、
繋ぎ繋ぎで、何とか一ヶ月近くもかけて(こんなことが出来るのが、GYAOのよいところですが)見ましたが、
残念ながら、さして面白い映画ではありませんでした。

二つの映画とも、性愛のシーンは激しく(当時の日本で、メジャーなところでのこれらの描写、といふ意味では風穴をあけたのでせうが)、肝心の映画としてうったへてくる部分が余りにも少ない。

それは、2作品に共通していへるのですが、
肝心の主人公達の演技の下手さ、台詞の拙さ、
それを後押しするやうな、脇役や端役の人たちの素人ぽい演技が目を覆ふばかりのもので、
結果、映画としてのリアリティ、重さ、激しさ、切なさ等々を表現しきれてゐないもどかしさばかりが
見終はった後に残ってしまふだけでした。

ある意味、異常なまでの性愛癖にとりつかれた女の、
夜叉のやうな狂ほしさや、それゆゑの哀しさが、殆んど現はれてこない。

『愛のコリーダ』のクライマックス・シーンのあと、
おそらく、大島監督だらう声のエンディングのアナウンスが入ったところあたりは、
正直、殆んど興醒めに近いものでした。

大島渚ほどの監督が、こんな作品で納得してゐたのだらうか?

 

 


重陽の節句

2006-09-09 | 大岡山界隈

すこし残暑がぶり返したやうな日差しの下で、
菊ならぬ、我が家の秋海棠は満開です。

ベゴニアでありながら、中国原産だといふこの花は、
幾十年なのか、幾百年なのか分かりませんが、
自然と変化をとげて、優しい日本の秋の一角を装ふ花になってゐるやうです。




秋海棠のすぐ上の棚では、
アケビの実が開きはじめました。






『残りの雪』、を読む。

2006-09-08 | 雑記


          

立原正秋の『残りの雪』を読む。
写真は文庫本の表紙ですが、今回読んだのは立原正秋全集(角川書店)の第18巻でした。

以前より、立原正秋の小説は好きですが(特に、彼の短篇の切れのよさは見事です)、
どうも、この小説はいただけない。

新聞連載といふこともあったのでせうが、話の割りに全体が長すぎ、
勁い主人公の女性と、落ちてゆく夫との対比も立原正秋の作品ではワンパターンですし、
主人公と出会ふ男との逢瀬や道行きも、すっかり夢物語になってしまってゐる。

作者が彼らを美しく描けば描くほど、余りにも浮世離れした話になり、
結果、全体が余りにもリアリティに欠けたものになってしまってゐる。
ふたりの、凄みもなければ、哀しさもない。

三十年以上前の作品ですが、それ以上に作品の”古さ”が目立ち、
主人公たちが立ち寄る店の名前にも陳腐なものが多く、
いつも食するものが、”オニオンスープとビーフステーキ”といふのもいただけない。


小生も、30年も前に、
毎月のやうに鎌倉を訪ね、この小説にでてくる近代美術館を訪ねた足で、二つ、三つの寺を訪ね歩いたものでした。
その意味では、それぞれの寺に咲く花の描写は美しく、また、懐かしいものですが、
作中にもあったやうに(既に30年前ながら)、街は日に日にその素朴さと威厳さを失ひ、
まったく、ただの観光地になってしまったのは残念なことです。



深沢不動尊

2006-09-06 | 大岡山界隈

近くに住む知人を訊ね、帰りがけに寄ってみる。
十年以上も前から気になってゐる場所だったが、初めて道を行く。




こころ細いやうな山道を行くと、
まさに、深山幽谷といった趣きのところにある。





      





詳細はわからないが、山形市内にある寺の名前があり、そこで管理されてゐるやうです。











不動明王が、ガレた境内の随所に祀ってある。






      




冬は、数メートルの雪に覆はれてしまふのでせう、
社や鳥居も朽ちかけて傷みが激しく、
奥の院への道は閉ざされ、行くことを諦めた。







この不動尊への旧道の参道に、幻の鳥居があるさうです。
今は、それへの手がかりが何もなく、近々調べて訊ねてみるつもりです。